忍者ブログ
主日説教
[2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

 聖霊降臨日       2008年5月11日

使徒言行録 2章1節~11節
 「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。『話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。』人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。

   †  †  †  †  †  †  †  †  †  †  †  †

 今日は教会の誕生日です。
 主が御復活してから50日目に当たります。それでこの日を「ペンテコステ」と言うようになりました。「一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」と記されていますが、正に主イエス・キリストの福音が、様々な言葉で表現されたことを意味しています。決して、一つの共通した言語で福音が語られているのではないことを、今日の聖書の個所は私共に示しています。
 「どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。」
 これは人々の純粋な疑問でもありました。主イエス・キリストについて、それぞれの国や地域や民族の言葉で語られている。この現実を使徒言行録の著者は目の当たりにして、それが人間の業ではないと悟ったのでありましょう。しかし同時に、使徒言行録の著者は、これが「異言」であるとも記していません。

 旧約聖書もそうですが、新約聖書の中にある文書は、様々なところで、様々な人々によって記されています。あのマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネという四つの福音書も、共通した資料は手元にあったとしても、それぞれの著者は彼が生きているその文化の中で記されていると考えられます。この使徒言行録も、少なくとも二人の著者がいたと考えられます。これは、二つの資料を合体させたと考えられるのですが、福音書の記者も使徒言行録の記者も、主イエス・キリストの直接の弟子でもなければ、直接目撃した人物でもないと思われます。ヨハネ福音書には「弟子の一人が書いた」と記されていますが、しかし当時の書き方を考えると、それだけで弟子のヨハネが書いたとも考えられません。ガリラヤ湖畔で生まれ育ったヨハネもアラム語を話していたと考えられますが、そのヨハネがどうしてあのギリシア文化に糸取られた文体のものを記すことが出来たのか。

 また、言葉は文化と密接な関係があります。
 「わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」
 使徒言行録が記された時代には既に、主イエス・キリストの福音がかなり広範囲に伝えられていたようです。そして、そうした現実を使徒言行録の著者自身が見聞していたのであろうと思われます。主イエス・キリストの十字架と復活の出来事が、様々な文化の中へ、様々な言語によって、様々なところに伝えられていたのです。

 先日、「憎悪の福音」という言葉を使った牧師の著作をまた読んでみました。そこには、主イエス・キリストの福音とはまったくかけ離れた、一部のエリート集団に福音が語りかけれられ、そのエリート集団が、社会の中で多くの苦しみや悲しみを背負って生きている人々を排除しようとしていることがはっきりと記されています。
 「わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに」
 この地域には様々な国があり、様々な民族が暮らしていました。
 福音は、主イエス・キリストの福音は排除の論理ではありません。あのゴルゴタの丘に行くこともせず、唯ひたすら隠れていた人々によって語り伝えられた、偉大なる包摂の論理であります。教会は決してこのことを忘れてはなりません。そして、この教会の誕生日である聖霊降臨日に、このことをもう一度、心に深く刻みつけたいものであります。

【 祈  り 】
 全能の父なる神よ、
 あのペンテコステの出来事の記念の日を感謝いたします。どうかこの日に、私共が排除の論理を棄て、包摂の論理に生きることが出来るようにして下さい。教会は、ともすると弱く苦しんでいる人々から目を逸らすだけでなく、悲しんでいる人々、苦しんでいる人々を排除しようとしてきました。そしてある時には、教会の組織を護るために、教会が傷つけてしまった人々を排除してきてしまいました。主よ、心から懺悔いたします。どうか、そうした人々がもう一度教会の交わりの中に加わり、主の御体と御血のサクラメントに預かることが出来ますように、私共に悔い改める心を起こして下さい。
 私共の主イエス・キリストの御名によってお願いいたします。

PR

 復活節第7主日       2008年5月4日

 ヨハネ福音書 第17章1節~5節
 イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。」

   †  †  †  †  †  †  †  †  †  †  †  †

 最近、新聞やインターネット上で硫化水素が問題になっています。皆さんも一度は耳にされたことがあるかもしれません。「練炭よりも楽に死ねます」と書かれているサイトがあるようです。ひとはふとしたことから絶望することがあります。先が見えなかったり、何もかもを失ってしまったと感じてしまいます。そして、時として教会の中で、そうした絶望しきった方に対して、「キミ、そんな弱気じゃ駄目でしょ。神様が護って下さるから頑張りなさい」という言葉が発せられることがありました。ある意味で、実に恐ろしいことです。こうした言葉を口にされる方は、自分は先が見えていると思っていらっしゃるのですか、私共は本当に先を見ることが出来ているのでしょうか。先が見える人が、本当にいるのでしょうか。ただ、今の豊かさや健康が変わることがないと思い込んでいるに過ぎないのではないでしょうか。

 「子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。」
 主イエス・キリストはこう言われました。そして、「子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。」と続けられています。
 「永遠の命」
 長い長い人間の歴史の中で、多くの人々がこの「永遠の命」を求め続けてきました。「不老長寿の薬」などはその典型かもしれません。しかし、その不老長寿の薬を手に入れたひとは、いまだに一人もいらっしゃいません。それだけではありません。「打ち出の小槌」や「お金のなる木」もありません。自分が災いに遭うのを防げるだけの防備も持っていません。そして、何よりも、明日の朝、目が覚めるのが怖いと思えることがある方さえいらっしゃいます。
 永遠の命よりも、いま楽になりたいと思われる方もいらっしゃいます。「もうこの痛みに耐えられません。その注射を倍の量、注射して下さい。そしたら楽になれます。」襖一枚隔てた隣の部屋で、末期ガンに苦しむ女性の叫び声を聞いたことがありました。小学校4年生の頃のことです。

 「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。」
 聖書は私共に告げています、「キリストは神から『ゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができる』」と告げています。そして、それが神の栄光が現れることだと語るのございます。
 死は終わりではありません。
 どのような人間の死も、終わりではありません。
 私共は神に造られた人間でしかありません。すべては神の御手の中にあります。あの十字架の主が道を示して下さいました。ひとは主の御栄光の内に招かれているのです。私も皆さんも、必ずいつか死を迎えます。しかし、死は終わりではありません。神の御栄光の内に招かれることであります。

 だからこそパウロはロマ書の中でこう記しているのでございます。
 「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(ローマの信徒への手紙12章15節)
 いまあなたの前に、横に、硫化水素に関心を持っている方がいらっしゃるかもしれません。二倍の量のモルヒネを注射して下さいと医師に懇願している人がいるかもしれません。いや、確実にいるのです。
 神の御栄光は、きらびやかな衣服を着た人々の中に現れるのではありません。むしろ主イエスは、悩み果て、疲れ果て、一切の望みを失ってしまった方々のところを、今日も訪ね歩いていらっしゃるのです。一枚の衣を着て、日毎の食べ物にさえ困窮している御弟子たちを連れて、いまこの時も硫化水素のサイトを懸命に読んでいる人々を探していらっしゃるのです。
 「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」


【 祈  り 】
 主よ、道を示して下さっていることを感謝いたします。
 あなたがどこにいらっしゃって、何をしようとされているのかを知ることが出来たことを感謝いたします。主よ、あなたと共に生きる力と知恵と勇気を与えて下さい。
 あなたの御子、主イエス・キリストの御名によってお願いいたします。
 アーメン

 復活節第6主日       2008年4月27日

ヨハネ福音書 第15章1節~8節
 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」

   †  †  †  †  †  †  †  †  †  †  †  †

 ある教会にひとりのご婦人がいらっしゃいました。よほど健康を害していらっしゃらないかぎり、毎主日、礼拝にいらっしゃっていました。私が知っている限りでは40年位の間に、礼拝にいらっしゃらなかった回数は一桁ではないかと思います。60歳になられたころから、そのご婦人は週報を6部ずつ、帰りがけにお持ちになるようになりました。教会で、アッシャーをされている方々は、それに気が付いていらっしゃったのですが、彼女が何をしているかは、判りませんでした。ただ、ただ、毎主日、礼拝が終わると週報を6部、A4の大きさのバインダーに挟み込んで、お持ち帰りになっていました。

 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。」
 2000年近い教会の歴史の中で、教会は何回この御言葉を読んできたでしょうか。主イエス・キリストに結びついていないと、私たちは本当の意味で生きていることが出来ません。それもしっかりと幹につながっていなければ、実を結ぶことが出来ません。そして、「しっかりと幹に繋がっている」ということは、間違いなく礼拝で主イエス・キリストの出来事に関する御言葉を聞き、主イエス・キリストの御体と御血に与ることを意味しています。聖書はそれをこう説明しています。
 「ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。」

 週報を6部、主日ごとにお持ち帰りになるご婦人が、それを何に使っているかが判ったのは、そのご婦人が亡くなって1年目の記念会の時のことでした。
 そのご婦人は、礼拝が始まる5分前にお御堂に入り、跪いてお祈りをされていたそうです。そして、礼拝が終わると、皆さんと少しお話をされた後、いつの間にかお帰りになっていらしゃったといいます。彼女は若い頃から糖尿病を患っていらっしゃいましたから、毎日、かなりの距離を歩いていらしゃいました。今であれば「ウォーキング」というのをされていたのでございますが、その途中で、毎日1軒ずつ、ポストにその週報を投函されていたそうです。ただ、週報をそのままではなく、週報の裏に必ず花の水彩画が描かれていたそうです。日曜日、教会から帰ると彼女はその6枚の週報の裏に、おなじ花の絵を描かれました。そして、月曜日から毎日、よほどお天気が悪くない限り、彼女はその絵をバインダーに挟んで、それを小さなバックパックに入れて背負い、ウォーキングに出掛けられました。

 「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。」
 そのご婦人は、ご自分が知っている限りの教会員の中で、いつの間にか教会に来なくなっていた方々のポストにそれを入れていらっしゃったそうです。JRの駅で二つ離れたお宅もあったそうです。途中で結婚して、引っ越してしまわれた方もいらっしゃいました。それでも彼女は、表札のお名前が変わっていない限り、そのお宅のポストに投函し続けたそうです。ある時は「二度と入れるな」という電話が教会にかかってきたそうですが、その教会の牧師さんは、毎回、のらりくらりと対応されていたそうです。そして、彼女が亡くなられた後、「週報はもう届かないのですか?」という電話もあったそうです。
 「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。」
 教会の方々は、まったくこのことをご存知ありませんでした。このことを知ったのは、彼女の1年目の記念会のことでした。礼拝堂に入りきれないほどの方々がお集まりになられたそうです。記念会としては異例のことです。そして、それ以来、礼拝出席者の数が少しずつ増えました。
 「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」
 主のお導きとお支えと、そして何よりもあの主イエス・キリストの十字架の贖いを心から感謝して、今日も主の御体と御血に与りましょう。

【 祈 り 】
 この世のすべてを見そなはして居給う主イエス・キリストの父なる神よ、
 主の十字架と御復活を心より感謝申し上げます。
 いつも、主イエス・キリストに繋がり続けていますように。そして、主イエス・キリストのために、私共も、実を結ぶことが出来ますように。
 十字架に掛かり、しかし御復活された主イエス・キリストの御名によってお願いいたします。
 アーメン

 復活節第5主日       2008年4月20日

ヨハネ福音書 第14章1節~14節
「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」 

   †  †  †  †  †  †  †  †  †  †  †  †

 時々、「祈っているだけでは駄目だ。しっかりとした意志を持って行動しなければ、祈っているだけでは、何事も成就しない」という内容のことをおっしゃる方がいらっしゃいます。すると必ず、「信仰とは祈ることです。神様がきっと良い道を備えて下さいます。私たちが救われるのは信仰によるのであって、行いによるのではありません」と反論される方が出てきます。私もそうした場面に今まで何十回となく出会ってまいりました。そして、その結果、この世の悪に対して戦いを挑んでいこうとされる方が出てまいりますが、しかし、時としてそれがポーズで終わってしまっていることもよく見掛けます。困っている人々のために行動しているのですが、よく見ると、あまり当たり障りのないことに対して、自分の立場を護りながらしていることが判ってしまいます。先日、ある方がフィリピンのことをお話しして下さいました。米も小麦も大幅に不足しているそうです。しかし、NGOなどを通してお金を送っても、途中でほとんど消えてしまうそうです。それでは何にもならないので、米をご自分で背負ってフィリピンまで行くしかないとおっしゃるのです。ある意味では、当然命がけのことです。1俵は約60キロです。担ぎ易い背負子を使えば担ぐことは出来るかもしれませんが、慣れていなければ歩くのは非常に危険ですし、腰の骨を痛める可能性は非常に高いです。しかし、その方の言葉の奥に、真実の情熱と想いがあるのがはっきりと見えました。


 12節「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。」
 主イエスがどのような道をお通りになって、父なる神のところに行かれようとされているのかを、主イエスご自身は弟子たちにお話になられました。「わたしが父のもとへ行くから」、「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる」と主イエスは弟子たちにお話しになられました。主イエスはこの時、既に、ご自身がどのようにして死ぬかということをご存知でいらっしゃいます。そしてそれが誰の為であるかということもご存知でいらっしゃいます。
 主イエスはフィリポにこう語りかけていらっしゃいます。
 「わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。」
 信仰は、ただ闇雲に信じることではありません。主イエスは、フィリポに対して、目の前にいるご自身を見よ、と語りかけ給うているのです。


 かつて、あるところで、「むかしは伝道と言っていたが、最近は宣教と言うようになった」ということをある聖職者から耳にしたことがあります。大変に残念な思いがしました。「伝道」はある時代には、自分たちの持っている信仰だけではなく、文化や習慣を押し付けるようにして、他者にキリスト教の信仰を伝えることを意味していました。しかし、1960年代になって、キリスト者にとってしなければならないことは、この世で今も働いて居給う神の御業=宣教に参与することを「宣教」というようになってまいりまして、信仰とは、あの十字架と御復活のお恵みを受けて、今もこの世にあって働いて居給う神の宣教の御業に参与することであると考えられるようになりました。
 アメリカ大陸の開拓時代、キリスト教会は多くの過ちを犯してしまいました。アメリカ大陸に住んでいたネイティブの男の子供たちに対して、その長い髪の毛を切りました。彼らにとっては、長い髪は力の源だったのです。彼らは、二度と学校へ来なくなりました。あるいは、ネイティブの方々にとっては、村の中にあるもののほとんどが共有物でした。テントの前に置かれている鍬は、誰が使ってもいいものでした。そして、使い終わった後で自分のテントの前に置いておいてもまったく問題になりませんでした。白人の学校で、あるネイティブの子供が隣の席の子供の筆記用具を無断で使い、自分のところに置いておきました。そしてそれが見つかったとき、その子供は「泥棒」として折檻を受けました。
 ヨーロッパのキリスト教社会では当たり前のことが、しかしアメリカ大陸のネイティブの方々の中では当たり前のことではありませんでした。


 12節「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。」
 信仰は、祈りは、神の宣教の御業に私共を導きます。主はいま、どこで何をなし給うとしているのかを、聖書の御言葉によって、また祈りによって知るからです。しばらく前に、マザー・テレサの映画を見ました。日々祈り、告解をし、御ミサのお恵みに与るあのマザー・テレサの生き方の向こうに、父なる神がそこで働いて居給うことを教えられました。マザー・テレサとあのシスターたちは、目の前にいる苦しんでいる人々のために、悲しんでいる人々のために、死に向かっている人々のために、ただただ神の宣教の御業にお仕えしていらっしゃいました。
 そして聖書は、今も、そうした生き方をしようとすることに対して、私共に確実な約束とそれ故の慰めを語り続けています。
 14節「わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」


【 祈  り 】
 主よ、御言葉を感謝いたします。どうか私共に、あなたの宣教の御業にお仕えをすることの出来る信仰と勇気と知恵と力を与えて下さい。私共はあなたにお仕えいたします。
 私共の主イエス・キリストの御名によってお願い致します。アーメン。


  お詫び
   私、メヒコ佐々木は、所用のため海外におりますので、
  この説教はある方にお願いして書いていただきました。
  あしからずご了承下さい。
   主の平和

 復活節第4主日       2008年4月13日

ヨハネ福音書 第10章1節~10節
 「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。
 イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」

   †  †  †  †  †  †  †  †  †  †  †  †

 「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」
 羊が羊飼いの後に付いていくのは、羊飼いと共にいることが最も安全であり、自分たちに必要なものを備えてくれるからに他なりません。しかし、盗人は自分たちを食べてしまったり、殺したりしてしまいます。
 「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。」
 主イエスは、ご自身がどのような存在であるかをファリサイ派の人々に伝えているのですが、彼らはそれを聞こうとしませんでした。
 「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」

 私共はいま、誰の後ろを歩いているでしょうか。
 誰の背中を見て生きているでしょうか。

 「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。」

 羊は囲いの中に残ることも選べます。しかし、羊飼いが何故、自分たちの囲いに入ってきたのかを知っている羊は、羊飼いの後を追って歩いていきます。何の疑いも持ちません。それは、羊飼いの後を付いていく先に、何が待っているかを知っているからです。
 羊飼いは羊に必要なものをすべて備えてくれます。嵐が来る前に、安全なところに避難させてくれます。傷ついた羊、小さな羊、幼い羊をその腕で抱き上げ、群れの先頭に立って歩いていきます。獰猛な動物が近寄れば、自分たちを護ってくれます。のどが渇いた頃になると、井戸のあるところに導いて水を飲ませてくれます。

 「しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」

 ファリサイ派の人々はここまで言われても気が付いていません。目の前で話をして下さっているのが、彼らが待ち望んでいたはずのメシア=キリストであるにもかかわらず、彼らはそれに気が付いていません。そこで主イエスは、次のように語りはじめました。
 10章11節
 「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。」

 マタイ福音書18章12節には次のような主イエスの言葉が記されています。
 「ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。」
 迷い出た羊を捜しに行くのであれば、仲間に追い出された羊を捜しに行かないでしょうか。それも、主は命がけで探しに行かれます。そう、私共のように勝手気ままな歩みをしているものたちをも、主は捜していて下さるのです。

 「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」
 主は十字架にお懸かりになるという仕方で、私共を護って下さったのであります。私共を命の泉に導いていて下さるのです。ここまで主がお示しになっても、ファリサイ派の人々は気が付きませんでした。そこで、主イエスはこうもお語りになられました。
 ヨハネ福音書10章16節以下
 「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。わたしは命を、再び受けるために、捨てる。」
 私共にとりまして、真実の羊飼いは、あの十字架に死に給うた主イエス・キリスト以外にはいません。私共にとりまして、真実の門は、あの主イエス・キリストしかいないのです。主はこうも続けられました。
 「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。

 主は自らゴルゴタの丘を目指して歩かれて行かれました。そしてマタイ福音書は次ぎのような主イエスの御言葉を私共に伝えています。
 「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(16章24節)

 私の好きな讃美歌に、次のようなものがございます。

  「ドロローサ」 詩・曲 山内修一

  わたしの罪のために 重い十字架負わされ
  あざける人の中を 耐えて行かれたイエスよ
  ドロローサ ドロローサ カルバリの丘へ
  ドロローサ ドロローサ のぼってゆく道

  わたしの胸の中に 刻まれた主の十字架
  いばらの冠つけて 祈られる主の姿
  ドロローサ ドロローサ 悲しみの丘へ
  ドロローサ ドロローサ のぼってゆく道

  わたしは行こう今日も 主の歩まれた道を
  血潮の跡をたどり 十字架を負って続こう
  ドロローサ ドロローサ よろこびの丘へ
  ドロローサ ドロローサ のぼってゆく道

  血潮の道はつづく 十字架の跡のこして
  あがないの丘こえて 父なる神の御座に
  ドロローサ ドロローサ なつかしの国へ
  ドロローサ ドロローサ のぼってゆく道 

 そして福音書は、ドロローサ(悲しみの道)と呼ばれるこの道の向こうに見える十字架だけではなく、そこを越えた勝利を告げています。
 「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」(ヨハネ福音書10章18節)

 今日は復活節第4主日でございます。
 私共は、あの御復活の主にまみえることが出来る日まで、主イエスが示された道を、自らの十字架を背負いながら歩んでいく決意を、この時、また主に新たにしていただけるように祈り求めたいと思います。

【 祈 り 】
 主よ、御子主イエス・キリストの十字架の道を、主を見上げながら、主の御跡を追い続けながらあるき続けることの出来る信仰を、いまこの時、新たにして下さい。そして、あなたがいま、どこで何をしようとされているのかを知り、その主にお仕えすることの出来る、知恵と力をお与え下さい。
 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。
 アーメン。
 



忍者ブログ [PR]
カレンダー
03 2024/04 05
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30
カテゴリー
フリーエリア
最新コメント
最新トラックバック
プロフィール
HN:
No Name Ninja
性別:
非公開
バーコード
ブログ内検索
カウンター
アクセス解析
カウンター