主日説教
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 聖霊降臨日 2008年5月11日 使徒言行録 2章1節~11節 † † † † † † † † † † † † 今日は教会の誕生日です。 旧約聖書もそうですが、新約聖書の中にある文書は、様々なところで、様々な人々によって記されています。あのマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネという四つの福音書も、共通した資料は手元にあったとしても、それぞれの著者は彼が生きているその文化の中で記されていると考えられます。この使徒言行録も、少なくとも二人の著者がいたと考えられます。これは、二つの資料を合体させたと考えられるのですが、福音書の記者も使徒言行録の記者も、主イエス・キリストの直接の弟子でもなければ、直接目撃した人物でもないと思われます。ヨハネ福音書には「弟子の一人が書いた」と記されていますが、しかし当時の書き方を考えると、それだけで弟子のヨハネが書いたとも考えられません。ガリラヤ湖畔で生まれ育ったヨハネもアラム語を話していたと考えられますが、そのヨハネがどうしてあのギリシア文化に糸取られた文体のものを記すことが出来たのか。 また、言葉は文化と密接な関係があります。 先日、「憎悪の福音」という言葉を使った牧師の著作をまた読んでみました。そこには、主イエス・キリストの福音とはまったくかけ離れた、一部のエリート集団に福音が語りかけれられ、そのエリート集団が、社会の中で多くの苦しみや悲しみを背負って生きている人々を排除しようとしていることがはっきりと記されています。 【 祈 り 】 PR 復活節第7主日 2008年5月4日 ヨハネ福音書 第17章1節~5節 † † † † † † † † † † † † 最近、新聞やインターネット上で硫化水素が問題になっています。皆さんも一度は耳にされたことがあるかもしれません。「練炭よりも楽に死ねます」と書かれているサイトがあるようです。ひとはふとしたことから絶望することがあります。先が見えなかったり、何もかもを失ってしまったと感じてしまいます。そして、時として教会の中で、そうした絶望しきった方に対して、「キミ、そんな弱気じゃ駄目でしょ。神様が護って下さるから頑張りなさい」という言葉が発せられることがありました。ある意味で、実に恐ろしいことです。こうした言葉を口にされる方は、自分は先が見えていると思っていらっしゃるのですか、私共は本当に先を見ることが出来ているのでしょうか。先が見える人が、本当にいるのでしょうか。ただ、今の豊かさや健康が変わることがないと思い込んでいるに過ぎないのではないでしょうか。 「子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。」 「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。」 だからこそパウロはロマ書の中でこう記しているのでございます。
復活節第6主日 2008年4月27日 ヨハネ福音書 第15章1節~8節 † † † † † † † † † † † † ある教会にひとりのご婦人がいらっしゃいました。よほど健康を害していらっしゃらないかぎり、毎主日、礼拝にいらっしゃっていました。私が知っている限りでは40年位の間に、礼拝にいらっしゃらなかった回数は一桁ではないかと思います。60歳になられたころから、そのご婦人は週報を6部ずつ、帰りがけにお持ちになるようになりました。教会で、アッシャーをされている方々は、それに気が付いていらっしゃったのですが、彼女が何をしているかは、判りませんでした。ただ、ただ、毎主日、礼拝が終わると週報を6部、A4の大きさのバインダーに挟み込んで、お持ち帰りになっていました。 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。」 週報を6部、主日ごとにお持ち帰りになるご婦人が、それを何に使っているかが判ったのは、そのご婦人が亡くなって1年目の記念会の時のことでした。 「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。」 【 祈 り 】 復活節第5主日 2008年4月20日 ヨハネ福音書 第14章1節~14節 † † † † † † † † † † † † 時々、「祈っているだけでは駄目だ。しっかりとした意志を持って行動しなければ、祈っているだけでは、何事も成就しない」という内容のことをおっしゃる方がいらっしゃいます。すると必ず、「信仰とは祈ることです。神様がきっと良い道を備えて下さいます。私たちが救われるのは信仰によるのであって、行いによるのではありません」と反論される方が出てきます。私もそうした場面に今まで何十回となく出会ってまいりました。そして、その結果、この世の悪に対して戦いを挑んでいこうとされる方が出てまいりますが、しかし、時としてそれがポーズで終わってしまっていることもよく見掛けます。困っている人々のために行動しているのですが、よく見ると、あまり当たり障りのないことに対して、自分の立場を護りながらしていることが判ってしまいます。先日、ある方がフィリピンのことをお話しして下さいました。米も小麦も大幅に不足しているそうです。しかし、NGOなどを通してお金を送っても、途中でほとんど消えてしまうそうです。それでは何にもならないので、米をご自分で背負ってフィリピンまで行くしかないとおっしゃるのです。ある意味では、当然命がけのことです。1俵は約60キロです。担ぎ易い背負子を使えば担ぐことは出来るかもしれませんが、慣れていなければ歩くのは非常に危険ですし、腰の骨を痛める可能性は非常に高いです。しかし、その方の言葉の奥に、真実の情熱と想いがあるのがはっきりと見えました。
復活節第4主日 2008年4月13日 ヨハネ福音書 第10章1節~10節 † † † † † † † † † † † † 「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」 私共はいま、誰の後ろを歩いているでしょうか。 「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。」 羊は囲いの中に残ることも選べます。しかし、羊飼いが何故、自分たちの囲いに入ってきたのかを知っている羊は、羊飼いの後を追って歩いていきます。何の疑いも持ちません。それは、羊飼いの後を付いていく先に、何が待っているかを知っているからです。 「しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」 ファリサイ派の人々はここまで言われても気が付いていません。目の前で話をして下さっているのが、彼らが待ち望んでいたはずのメシア=キリストであるにもかかわらず、彼らはそれに気が付いていません。そこで主イエスは、次のように語りはじめました。 マタイ福音書18章12節には次のような主イエスの言葉が記されています。 「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」 主は自らゴルゴタの丘を目指して歩かれて行かれました。そしてマタイ福音書は次ぎのような主イエスの御言葉を私共に伝えています。 私の好きな讃美歌に、次のようなものがございます。 「ドロローサ」 詩・曲 山内修一 わたしの罪のために 重い十字架負わされ わたしの胸の中に 刻まれた主の十字架 わたしは行こう今日も 主の歩まれた道を 血潮の道はつづく 十字架の跡のこして そして福音書は、ドロローサ(悲しみの道)と呼ばれるこの道の向こうに見える十字架だけではなく、そこを越えた勝利を告げています。 今日は復活節第4主日でございます。 【 祈 り 】 |
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