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主日説教
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受難日  2008年3月21日

ヨハネ福音書19章28節~30節
 この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。

   †  †  †  †  †  †  †  †  †  †  †  †


 私共が聖書を読んでいると、どうしても疑問に思えるところが出て参ります。今日の聖書の個所もその一つです。この「ヒソプ」という植物ですが、酸いぶどう酒を含ませた海綿を糸で結びつけて、高いところまで差し出せるような植物ではありません。おそらく、ヒブル語で「エーゾーブ」といわれていた植物をギリシア語に訳したときに「ヒソプ」と訳したことから、ここでも「ヒソプ」と記されたのであろうと思われます。かといって、ヨハネ福音書はヒブル語で書かれていたものをギリシア語に訳したものであるわけではありません。文体などからして、明らかに初めからギリシア語で記されていることは、ほとんどの新約学者が認めています。そして、この「エーゾーブ」という植物に関しては、聖書植物学者によっていくつかの仮説が立てられています。ハナハッカという植物だとする方もいらっしゃいますし、ハーブとして有名になったマジョラムという植物の一種だとする方もいらっしゃいます。このマジョラムであれば、小さな海綿を先に付けて主イエスの口元に届かせることは可能かもしれません。


 もう一つは、この個所に出てくる「酸いぶどう酒」に関することです。これは原語では「オクソス」という言葉が使われています。そして、英語では一般的に「ビネガー」と訳されています。聖書で「ぶどう酒」と訳されているものの原語は「オイノス」で、主イエスの時代にはまったく別のものとして考えられていました。この時代にはまだ、ブドウ糖が発酵してエチルアルコールになり、エチルアルコールが発酵して酢酸になるということはまったく判っていませんでした。ぶどうをつぶしてぶどう液にし、そのまま放置するとぶどう酒になるのですが、基本的にはブドウ糖とエチルアルコールの濃度が同じになると第一次発酵が停止し、そこからはエチルアルコールが発酵によって酢酸になっていってしまいます。聖書の時代、ぶどう酒をぶどう酒のまま保存することは極めて困難だったと考えられます。最近の研究では、過越の食事の時の杯の中にあったぶどう酒は、3倍から5倍に水で薄められたものであろうと考えられています。秋に穫れたブドウで作ったぶどう酒を、春の祭りである過越祭の時まで保存することは至難の業だったからです。ここで差し出された「酸いぶどう酒」は、疲労回復の為であったのかもしれません。ギリシア地方の薬学者の間ではそれが用いられ、ローマ帝国では奴隷が飲まされていました。


 ヨハネ福音書の記者はこうした事実を知っていたのだと思われます。

  苦役を課せられて、かがみ込み
  彼は口を開かなかった。
  屠り場に引かれる小羊のように
  毛を切る者の前に物を言わない羊のように
  彼は口を開かなかった。
  捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。
  彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか
  わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり
  命ある者の地から断たれたことを。
  彼は不法を働かず
  その口に偽りもなかったのに
  その墓は神に逆らう者と共にされ
  富める者と共に葬られた。

 イザヤ書53章7節以下にある「主の僕」と呼ばれる個所です。
 ヨハネ福音書の記者は、ギリシア語に訳された旧約聖書によって、このイザヤ書の個所を想い浮かべていたのではないでしょうか。
 ヨハネ福音書19章30節
 「『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた。」
 主イエスは、十字架の上で、犠牲の小羊として死なれたのです。


 今日は、主の御受難の記念の日です。私共があの出来事を想い出すためだけの日ではご座いません。私共は365日、あの主の御受難を忘れることは出来ません。そうではなく、神にあの十字架の出来事を想い起こして下さるようにと祈る日でもあります。御ミサの制定語の中に「私の記念として(エイス ムネーモスノン)」と記されているのは、私共が主イエス・キリストの贖いの十字架を想い出すと言うことではなく、神に想い出していただくという意味です。ギリシア語に訳された旧約聖書でこの「エイス ムネーモスノン」という表現が用いられる時の主語は、ほとんどが神だからです。
 マルコ福音書8章34節b~
 「「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」
 あの丘の上に立つ主の十字架を見上げながら、自らの十字架を背負いながら、主イエス・キリストと共に歩んで参りたいものでございます。

【祈 り】
 あの日、ゴルゴタの丘の上で十字架に掛かり給うた主イエス・キリストの父なる神よ、
 主の御受難の日にあたり、主が私共の罪の贖いとして十字架に死に給うたことを今日また知らされ、自らの愚かさと至らなさと、多くの罪を心より懺悔いたします。主よ、あなたの御子・主イエス・キリストの犠牲の十字架を想い起こし続けていて下さい。そして、私共の罪を赦して下さい。
 私共の愚かさの故に傷ついている人々がいらっしゃいます。生きることに絶望されることもありました。主よ、私共をお赦し下さい。そして、あなたの御業のために私共を用いて下さい。私共はあなたに私共自身をお捧げいたします。
 あの十字架に死に給うた主イエス・キリストの御名によってお願いいたします。
 アーメン。
 

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