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主日説教
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ヨハネ福音書11章38節~44節
 イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。
                     (日本聖書協会『新共同訳聖書』)
    †  †  †  †  †  †  †  †  †  †  †  †


 この出来事の直前の場面にはこう記されています。
 11章33節34節
 「イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。『どこに葬ったのか。』彼らは、『主よ、来て、御覧ください』と言った。」
 マグダラのマリアとその周囲の人々は、彼女の兄弟ラザロの死を悼み、苦しみ、悲しんでいました。しかし、主イエスはそうした人々に対して「心に憤りを覚え、興奮して」、言われたのです。「どこに葬ったのか。」この主イエスの憤りは、何に対する憤りだったとこのヨハネ福音書の記者は考えているのか。そして、35節には「イエスは涙を流された。」と記されています。ある注解者は「友人を失った痛みのあまりに、泣き出したのだ」と解釈しています。しかし、別の注解者は、「目の前に主イエスがいる、ユダヤ人が待ち望んでいたメシア=キリストである主イエスがいるにも関わらず、人々がまったくそれを認識していないことに涙を流されたのだ」と解釈しています。そして、ヨハネ福音書の記者はこう続けています。
 11章36節37節
 「ユダヤ人たちは、『御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか』と言った。しかし、中には、『盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか』と言う者もいた。」


 今日の御言葉はこの37節に続いて記されています。
 「イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。」
 主イエスは既にこの場所を訪れていらっしゃいます。ラザロが死んだと聞いて墓に来ていたのです。それも、ラザロが瀕死の状態の時に、マグダラのマリアからラザロが病気であるという報告を受けていたにもかかわらず、主は「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」とおっしゃって、すぐにはラザロの所へ行かれませんでした。しかし、マグダラのマリアをはじめ、そこにいた人々はその言葉を理解できませんでした。
 「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」
 それだけではありません。ラザロが死んで四日、主イエスはラザロが葬られた墓にお出かけになりました。そこでマリアの姉のマルタとこうした会話をしていらっしゃいます。
 「あなたの兄弟は復活する。」
 「終わりの日の復活の時に復活することは存じております。」
 「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
 「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」


 しかし、マルタもマリアも、そしてそこにいた他の人々も、目の前にいるナザレ人イエスが待ち望んでいたメシア=キリストであり、その主イエスの言葉が何を意味しているのかということを理解できていませんでした。  
 主イエスの憤りも、涙も、そうした人間の愚かさのためのものではないでしょうか。メシア=キリストがここに来ているのに、何故、人々はそれに気が付かず、自分たちの思いの中でだけ現実を理解しようとしているのか。
 「イエスが、『その石を取りのけなさい』と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、『主よ、四日もたっていますから、もうにおいます』と言った。イエスは、『もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか』と言われた。」
 「あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」と主イエスに告白したあのマルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と主イエスに言ってしまいます。
 ヨハネ福音書の記者は、この主イエスの憤りと涙を、私たちに伝えようとしているように思えてなりません。日々御言葉に触れ、日々祈っている私共に、「その石を取りのけなさい」という主イエスの御言葉が語られる時、私共は本当にその主イエスの言葉に従うことが出来るかどうか。そして主イエスは神にこう祈り給うたのです。
 「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」


 「ラザロ、出て来なさい。」
 主イエスの大きな御声が墓の中に響き渡りました。
 「ラザロ、出て来なさい。」
 人々が絶望のどん底に立たされているときに、主はその絶望の原因を取り除こうとされています。そしてそれは、人々の悲しみを消し去るためではなく、ご自分がメシア=キリストであることを人々に示すためでした。ここには、この世的な権威も気高さもありません。あるのはただ、主イエスご自身がメシア=キリストであるということを、ご自身で私共に示そうとされているという事実だけです。
 「すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。」
 ヨハネ福音書の記者は、主イエスが正にメシアキリストであるということを私たちに示されたこの出来事を、具体的に臨場感に溢れた書き方で記しています。「手と足を布で巻かれたまま」「顔は覆いで包まれて」というのは、正に当時の葬りの仕方を表しています。おそらくこの時、人々は一言も声が出なかったのであろうと思います。それだけではありません。身動き一つ出来なかったのではないでしょうか。メシア=キリストがそこにいると知った時、彼らはそこで正に立ち竦んでしまっていたのではないでしょうか。そうした人々の方に向き直って主イエスは、「ほどいてやって、行かせなさい」と人々に語り告げます。人々の眼には、もしかしたら、あの憤りが消え、涙の跡が残りながらも、微笑んでいる主イエスのお顔が見えていたかもしれません。
 この四旬節第5主日、私共はこの主イエスを心の底から見つめ続けていたいと思います。口で信仰を告白しても、心の底から主を見つめ、主の御言葉に耳を傾け、主の御旨を生きることの出来ない私共も、しかし、このラザロの復活の出来事を通して、あの主イエスがキリストであることを示されているのですから、ただただ、主の御言葉に信頼し、主の御旨を生き続けたいものです。


【祈 り】
 ラザロを復活させ給うた主イエス・キリストの父なる神よ、
 聖書を通して、あの出来事を今日また示され、心より感謝申し上げます。聖書に示された主イエス・キリストの御言葉と出来事を、心から受け容れることが出来ますように。そして、聖書を通し、教会を通してあの御復活のキリストに私共もお会いすることが出来ますように。私共は、主の御旨を生き続けたいと思います。どうぞ主よ、あなたが聖霊によって私共を励まし、支え、導いていて下さい。そして、この世にあって今も力強く働いてい給う聖霊の導きによって、私共をあなたの宣教の御業に仕えさせて下さい。
 私共の主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

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ヨハネ福音書9章1節~14節
 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。
 人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。
                  (日本聖書協会『新共同訳聖書』)

 「人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。」
 ヨハネはここで、急に話を転換させます。理由は、この後に続く、この盲人であった人とファリサイ派の人々との対話を記そうとしているからですが、ヨハネはまず、人々の目の前で起こったことを記しています。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」主イエスはそう言われて、一人の盲人の目を癒されています。 
 「イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。」
 どうして目が癒されたのかだけをヨハネはまず語っています。
 主イエスが唾で泥をこねて盲人の目に塗り、シロアムの池で洗ってくるようにとその盲人にいわれると、この盲人は言われるままのことをしました。「目が見えるようになって、帰って来た」。ただそのことだけをまずヨハネは語っています。「『遣わされた者』という意味」という説明は、ヨハネ福音書を読む人々がヒブル語が判らなかった為でしょうが、それ以外の説明を一切ヨハネはしていません。


 私共は、何かのことが起こると、まずそれを解釈しようとしてしまいます。「何故この人は目が見えなくなったのか」、主イエスの弟子たちでさえ主イエスにそう尋ねてしまいます。しかし、主イエスの口から出たことはそうしたことへの解釈でも弁明でもありませんでした。ただ、そこでこれから起きようとしていることを説明されたのでございます。
 「神の業がこの人に現れるためである」
 つまり、この盲目の人は人々に神の御業を主イエスがお示しになるためにここにいるのだという事実を説明しているのであります。そして、神の御業がどのような仕方で表れるのかを人々に示します。「シロアムの池に行って洗いなさい」、主イエスはただそれだけを盲人にお命じになりました。
 そして、盲人の目が見えるようになった。
 ここにはファリサイ派の人々はいません。盲人の目が癒された後で、彼らはこの出来事を耳にしているのです。


 エフェソの信徒への手紙 5章8節~14節
 「 あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。――光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。――何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。
 『眠りについている者、起きよ。
  死者の中から立ち上がれ。
  そうすれば、キリストはあなたを照らされる。』」
 14節の『 』の中は初代教会の復活の讃歌かもしれません。
 その後にはこう続いています。(15節~
 「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。」
 ファリサイ派の人々は安息日の規定に縛られています。この盲人の目がどうして治ったのかということが見えていません。見ようともしていません。
 「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。」
 パウロはエフェソの人々にそう語りかけています。
 「無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。」
 ファリサイ派の人々、それはイスラエルの指導者でもありました。しかし彼らは見えていないのです。彼らが待ち望んでいたはずのメシア・キリストが来られていることが見えていないのです。


 ファリサイ派の人々は、この盲人に起こった事実を認めようとしません。
 ヨハネ福音書9章24節~25節
 「 さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。『神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。』彼は答えた。『あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。』
 私共はともすると、このファリサイ派の人々と同じように、追い求め、付き従っているはずのメシア=キリストを見失ってしまいがちです。ファリサイ派の人々のように、自分たちの信念や社会的地位にしがみついてしまいます。自分や自分たちと同じような人々の中でだけ、物事を考えてしまいがちです。しかし、主が癒されたあの盲人は、人々の「その人はどこにいるのか」という問いにこう答えています。
 「知りません。」
 この盲人は知らなかったのです。どこの誰かも知らなかったのです。 生まれながら見えない自分の目を見えるようにして下さった方が、どこへ行かれたのかも知らなかったのです。しかし、主は、そうした方の目を、「目が見えるようになって、帰って来」させて下さったのです。
 この四旬節の時、十字架に死に給うた主イエス・キリストのお姿とその御言葉を、しっかりと想い起こしたいと思います。

【祈 り】
 主よ、すべてを感謝いたします。
 犠牲の小羊としてあの十字架に死に給うた主イエス・キリストが、いま誰と共にいられるのかを見失うことがありませんように、知恵と力と信仰を増し加えていて下さい。この四旬節の時、心を静め、魂を鎮めて、主の御旨が何であるかを覚え続けさせていて下さい。
 あの日、ゴルゴタの丘で十字架に架かり給うた主イエス・キリストの御名によってお願いいたします。アーメン。


ヨハネ福音書4章21節~24節
  イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。


 私共が礼拝している時間にも、様々なところで仕事をしていらっしゃる方がいます。電気・ガス・水道といった公共的なものだけではありません。日曜日こそ休むことが出来ない方々がいらっしゃいます。私はある時に、「日曜日に休めないような人は教会へ来なくてもいい」という言葉を耳にしたことがありました。その方は、都会のサラリーマンの方でした。そして現在は、「グローバル」という言葉が示しているように、昼夜の区別なく仕事をしなければならない方々が増えています。
 ですから、学生時代に教会で洗礼を受けられても、日曜日に教会にいらっしゃれない方々もいらっしゃいます。

 「あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。」ここで礼拝という言葉が使われていますが、この「礼拝」という言葉の具体的意味は、キリストに関する言葉が語られ、キリストご自身が「私の記念としてこのように行いなさい」といわれた聖餐の両方を意味しております。ヨハネ福音書が記されたのは、もしかすると2世紀の初頭、どんなに早くても1世紀の終わりではないかと思われます。もちろん、主イエスの弟子のヨハネが書いたものではございません。ヨハネは生粋のユダヤ人です。アラム語を話していたと考えられます。ですから、このヨハネ福音書のような文体のものを書けたとは考えにくいですし、著作年代からすると、あまりに高齢になりすぎています。
 「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。」
 そしてヨハネはこう続けます。
 「今がその時である。」
 主の御復活を知っている共同体つまり教会に対して、ヨハネはこう語っているのです。ヨハネ福音書が記された時にはすでに、礼拝は行われていました。ヨハネはそれだからこそ、礼拝の意味をここに記しているのでございます。

 ある教会は、日曜日に3回、礼拝をしていました。朝7時と10時半と夜の7時です。商売でお店を休めない方は夜の礼拝に出席されていました。その方の奥様は、朝7時の礼拝にいらっしゃっていました。ご夫妻でご一緒に来たくても、お店の準備や後片づけが大変なのだろうと思います。そして、その教会は決断しました。どの礼拝もすべて同じように行うということをです。ですから、司祭は一日に3回、聖餐式を行わなければなりませんでした。
 それでも、部活の試合の前に朝の礼拝に高校生が来たり、補習で学校へ行かなければならない高校生が夜の礼拝にやってきていたそうです。彼らは、ほとんど礼拝を休まなかったそうです。

 「父はこのように礼拝する者を求めておられる」
 礼拝は神が招かれているものです。そこに招かれた聖職者は神に仕え、そして神に招かれた人々に仕えるために聖餐式を執り行います。何故なら、礼拝は、神が礼拝することを求めておられるからです。主イエス・キリストの御言葉が語られ、聖餐が執り行われる。かつて、カール・バルトという有名な神学者が、晩年の著書の中で、日曜日ごとに聖餐式が守られた方がいいと記しています。ある意味では、当然のことです。今日の福音書に記されている「礼拝」という言葉には、聖餐式が含まれているからに他なりません。
 「父はこのように礼拝する者を求めておられる」
 何らかの事情で、聖餐のお恵みに与ることの出来ない方々もいらっしゃると思います。そうした方々が、一日も早く一緒に聖餐のお恵みに与ることが出来るように、このレントの時、聖餐の恵みを今日も与れる私共も祈り続けなければなりません。
 そして、万が一、教会の過ちによって、聖餐に与れない人々がいるとしたら、私共はその方々を聖餐の場に招けるように悔い改めなければなりません。

マタイ福音書5章23節~24節
 「あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。」

【祈り】
 主よ、
 いまこの時、私共の過ちによってこの聖餐のお恵みに与れない兄弟姉妹がいるのであれば、主よ、私共一人々々に、あなたのみ前でこころから悔い改めることが出来る、知恵と力と勇気をお与え下さい。そして、この聖餐のお恵みに与れない方々が、一日も早く、ともにそのお恵みに与れることが出来るように、私共が悔い改めることが出来ますように。
 私たちの罪の贖いとして十字架に死に給うた主イエス・キリストの御名によって祈ります。
 アーメン。



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