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主日説教
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 四旬節第四主日       2009年 3月22日

ヨハネ福音書第6章4節~15節
 ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。

   †  †  †  †  †  †  †  †  †  †  †  †

 この聖書の個所を何とか説明が付くように、様々な解釈が為されてきました。10節の中程に「そこには草がたくさん生えていた」と記されていることから、人々はパンだけでなく、草を食べたのだと考えた人々もいました。あるいは、持っていた五つのパンと二匹の魚を差し出した少年の心を知って、人々も自分たちが持っていたものを出し合ったのだと考えた人々もいました。しかし、聖書はそうしたことに関して、一切、沈黙しています。

 ヨハネ福音書の記者は、ただ次のようにだけ記しているのです。
 「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。」
 私共にとりまして、信仰というのは、この聖書の御言葉にあることだけを見つめることではないでしょうか。今日の聖書の個所も、私共人間の目から見ると奇跡に見えます。しかし、これが神の御業であるとしたら、それは人間にとっては奇跡であっても、神にとってはそれが真実なのであります。

 「人々が満腹したとき」と12節の冒頭にあります。たった五つのパンと二匹の魚だけで、200デナリオンに相当するパンがあっても足りない人数が満腹しています。1デナリオンは当時の労働者の一日分の賃金ですが、現代とは貨幣価値が異なっていますから、現代のお金の単位に換算することは不可能だと、最近の翻訳学は考えていますが、しかし、200デナリオンのパンということを考えると、相当な量のパンであったであろうと考えられます。にもかかわらず、それだけ大勢の人々が、五つのパンと二匹の魚で満腹しています。

 「3秒に1人、貧困で幼い命が犠牲に。」という広告があるサイトに出ています。そこをクリックすると、以下のサイトが表示されます。
 
http://www.worldvision.jp/over0702/?banner_id=adcom_0903_mc3479
 いま満腹している皆さんは、是非ご覧下さい。そして、主イエス・キリストがどのように生きよとおっしゃっているかをお考え下さい。信仰は決して心の問題ではありません。信仰は、あの十字架にかかり給うた主イエス・キリストの御跡を生きることです。この四旬節の期間、皆様もそれぞれに節制されていることでしょう。しかし、それだけが信仰であるかどうかをお考え下さり、主イエス・キリストに、持っていた五つのパンと二匹の魚をすべて差し出した少年の生き様を、私共も共に生きたいものでございます。

【 祈  り 】
 主よ、あなたによって生かされていることを、心から感謝いたします。
 どうか主よ、私共一人々々が、あなたの御子、主イエス・キリストの御跡を生きる者とならせて下さい。そして、あなたと人々にお仕えすることが出来る者とならせて下さい。
 私たちの主イエス・キリストの御名によってお願いいたします。
 アーメン。

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 顕現後第六主日       2009年 2月15日

マルコ福音書第1章40節~45節
 さて、ハンセン病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまちハンセン病は去り、その人は清くなった。イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。
 (日本聖書協会『新共同訳聖書』の一部を改訳しています)

   †  †  †  †  †  †  †  †  †  †  †  †

 新聞やインターネットに「訃報」と題して、お亡くなりになられた方のことが出ておりますが、死因の多くは「肺炎」と記されています。「ガン」と書かれていることは少ないように思えます。確かに、直接の死因は肺炎であるのですが、それ以前からガンを患っていらっしゃった方でも、「肺炎」と記されていることが多いと聞きました。理由は、「ガン」と記すと、残されたご遺族に不利益になることがあるからだということも耳にしたことがあります。今でも、履歴書に両親の死因を記させるところがありますが、そこに「ガン」と書いただけで、ある種の偏見が生まれているようです。

 今日の聖書の個所は、ハンセン病患者を主イエスが癒された時の記事です。「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」というハンセン病を患っている方の言葉に、主は深く憐れみ、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」とおっしゃいました。皆さんはこの個所をお読みになってどう思われるでしょうか。「手を差し伸べてその人に触れ」というところです。現在はハンセン病に関する見解が大きく変わって、感染症ではありながらその伝染力は極めて低いことが確認されています。しかし、そうした時代にあっても、「手を差し伸べてその人に触れ」という言葉にたじろぎを感じる方も多いのではないでしょうか。

 「四苦八苦」という言葉があります。「四苦」とは、「生・老・病・死」の四つの苦しみです。そして「愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦」を加えると「八苦」になります。是は仏教的な理解ですが、しかし、聖書にもこうした苦しみについても書き記されています。主はそうした苦しみの中にある人々に対して、「手を差し伸べてその人に触れ」ようとされていることを、今日の聖書の個所は私共に告げ知らしめています。そして、「誰にも話さないように気をつけなさい」という主の言葉を、このハンセン病を癒された人は守れませんでした。この人は「大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた」のです。

 ひとは、ともすると僻みや妬みを心の中に持ちます。このハンセン病だった人の証言を聞いて、羨望の眼差しをもった人々もいたかもしれません。しかし、聖書はそれを問題にしていません。聖書は「イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。」と記しています。人々は「手を差し伸べてその人に触れ」た主イエスのところに来ていることを聖書は書き記しています。聖書が告げる信仰の原点はここにあるのです。主がどこにいらっしゃるのか、主はそこで何をしていらっしゃるのか、それが私共クリスチャンの生き方の原点であり、私共はその主イエス・キリストの御業にお仕えしたいものでございます。

【 祈  り 】
 主よ、御言葉を心から感謝申し上げます。
 生きることに苦しみ、老いることを苦しみ、病に苦しみ、死の苦しみにいる方々を思い起こすときに、しかし、あなたの御子、主イエス・キリストがそうした方々に手を差し伸べ、触れていることを知り、あなたが今どこで何をされようとされているのかを知ることが出来ます。どうか主よ、私共をそうした主のお働きに仕える者とならせて下さい。そして、そこで、私共も主イエス・キリストにお会いすることが出来ますように。
 私共の主イエス・キリストの御名によってお願いいたします。アーメン

 顕現後第五主日       2009年 2月 8日

マルコ福音書第1章29節~39節
 すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。町中の人が、戸口に集まった。イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。
 朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、「みんなが捜しています」と言った。イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。

   †  †  †  †  †  †  †  †  †  †  †  †

 最近の日本の情況を見ていると、ある種の倒錯が起きているように思えることがあります。今日の聖書の個所に、「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて」と記されておりますが、都会地でこうした生活をしていらっしゃる方々は、勤務開始時刻が早い方々だけではないでしょうか。しかし、農村では、戦後もこうした生活が続いていたので、今もその習慣を変えていない方々がいらっしゃいます。私の祖父は、夜8時頃になると寝ていました。そして、夏は朝4時前には起きていたようです。「蛍雪」という言葉がありますが、夜暗くなってから本を読むために、ランプを点すことが出来た人々は、都会地以外では、それ程多くはなかったのではないでしょうか。

 「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」主イエスは、そうおっしゃいました。「町や村へ行こう。」それは、イスラエルの様々な人々に、神の御業を示すためでした。「わたしは宣教する」と訳されていますが、この「宣教する」と訳されているギリシア語、あるいは「宣教」と訳されているギリシア語が意味していることは、既にそこで働き給うている神の、その御業を明らかにすることを意味しているように私には思えます。人間の働きではご座いません。そして、主は悪霊を追い出したとありますが、「追い出す」というよりは「排除する」という強い言葉のようにも思えます。

 このマルコ福音書は、福音書の中で最も早く記されたものであろうと考えられておりますが、その大きな特徴の一つとして、イスラエルの貧しい、農村や漁村の人々に主イエスが語りかけている部分が非常に多く見られることです。彼らにとっては、明るくなる前に起き出すことは珍しいことではなかったと思います。イスラエルの緯度は東日本とほぼ同じですから、夜明けと日暮れの時刻はそう変わりありません。ですから、「シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、『みんなが捜しています』と言った」ということになるわけです。

 「そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」
 聖霊はいま、この混乱する現代にあって、どこでどのように神の御業を顕わそうとしているのでしょうか。エルサレムの神殿でしょうか。大都市の教会の中で、あるいは地方の大きな都市にある大きな教会の中ででしょうか。確かに、そうしたところでも聖霊は今も働いて居給うのですが、しかし、私共が決して見失ってはならないのは、主イエスが宣教されて歩かれた、小さな村々でも、間違いなく、確実に、聖霊はその御業を今も、力強く為し続けて居給うということでご座います。そして、私共も、そうした聖霊のお働きに仕え続けていたいと思います。

【 祈  り 】
 主よ、御言葉を心から感謝申し上げます。
 この混乱する時代にあって、野宿している人々、食べるものを得ることが出来ない人々、あるいは幼い子供たちを主よ、あなたがお守り下さいますように。そして、あなたのその御業に、私共一人々々がお仕えすることが出来ますように。虐げられている人々、苦しんでいる人々、悲しんでいる人々が、私共のすぐ隣にいるかもしれないことを、私共一人々々が気が付き、そこであなたが何をされようとしていらっしゃるのかを知ることが出来ますように。主よ、私共をあなたの宣教に仕えるものとならせて下さい。
 私共の主イエス・キリストの御名によってお願いいたします。アーメン

 顕現後第二主日       2009年 1月18日

ヨハネ福音書1章43節~51節
 (その翌日、)イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」

   †  †  †  †  †  †  †  †  †  †  †  †

 ひとは神になることも、神のようになることもできません。あるいは、自分から神に会おうとしても、神に出会えるものでもありません。これは、あのペトロをはじめ、主イエスの御弟子でさえそうでした。彼らは皆、主イエスから近寄ってきて下さっています。フィリポの場合もそうでした。聖書には、フィリポは主イエスを探していたとは記されていません。主イエスは、ガリラヤへ行こうとされた時に出会ったとだけ記されています。この出会いが、フィリポを変えました。それも、「わたしに従いなさい」という、主イエスご自身の御言葉によってだけです。それ以上に、聖書は説明しようとしていません。

 私にも今までに、人生を大きく変えられた出会いがあります。その方に出会ったのは、自分が計画してのことではありません。本当に偶然のことでした。もちろん、私はその方のことを存じ上げておりませんでした。あることで、すべてが行き詰まっていた時に、ふとしたことから出会うことが出来たのです。しかし、その方に出会うことによって、行き詰まっていた私の仕事が、大きく道を開かれました。主の御用のために何をどう考えたらいいのか、何をどうしたらいいのか、そして何を目指していったらいいのかをはっきりと示されはじめております。

 フィリポがナタナエルに出会ったのも、間違いなく、神のご計画によるものでした。ひとがひとに出会うことも、そしてその方に出会うことによって大きく変えられることがあります。ナタナエルはフィリポから主イエスのことを聞いた時に、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と彼自身の知識で答えてしまいました。この言葉は、ある意味ではナザレという町を軽蔑しているように聞こえます。しかし、彼はそれまでに得た旧約聖書に記されたことを心に思い浮かべたのです。にもかかわらず、ナタナエルは変えられます。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」という主イエスの言葉に主はこう答えられたからです。「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」。

 主はすべてをご存知でいらっしゃいます。聖書は私共に、はっきりとそれを示しています。そして、時として、思いも寄らないところで、思いも寄らない人々との出会いの中で、主は私共に道を示し、私共を導き、支え続けていて下さいます。そして、私共が歩むべき道を、聖書を通して私共に示して下さいます。ペトロ・ヤコブ・ヨハネをはじめ12人の御弟子に出会われたのも、主が彼らのところへ来て下さり、主が彼らを招いて下さったからでありました。私共は、この混乱する時だの中にあって、多くの方々との出会いの中で、主イエスに出会いたいものです。私共は、聖書を通して、また聖霊のお導きによって主イエスに出会うことが出来ます。私共が「聖書のみ」という信仰を持っているということは、そうしたことでもあります。

【 祈  り 】
 主よ、御言葉を心から感謝申し上げます。
 日々の生活の中で、聖書を通してあの主イエス・キリストに出会わせて下さい。そして、主がどう生きよと命じられているかを知り、それを受け容れることができますように。
 私共の主イエス・キリストの御名によってお願いいたします。アーメン


 降誕節第四主日       2008年12月21日

ルカ福音書1章26節~38節
 六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。

   †  †  †  †  †  †  †  †  †  †  †  †

 教会は、この聖書の個所を今までに何回読んで来たでしょうか。おそらく、クリスマスが来るたびにこの聖書の個所を読んできました。そして、主イエス・キリストがお生まれになった時の出来事を、信じ続けてきたはずです。ごく一部のキリスト教会では、この聖書の個所にある、「処女降誕」を科学的には考えられないという理由から否定することもありました。そして、その教会が属している教派では、かなり大きな問題になるだろうと思っておりましたら、あまり大きく取り上げられもせず、そう発言した聖職が戒規に付されるということもありませんでした。しかし、「科学的にあり得ない」ということが理由であれば、聖書の中に記されている信仰は、すべて、人生論になってしまうことは避けられませんし、聖書の時代にも「処女降誕」は起こり得ないと考えられていたことは、この聖書の個所自身が私共に教えてくれています。

 「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」という聖母マリアの言葉が示している意味は、二千年前の人々もよく知っていたことであります。ですから、当然のこととして、このルカ福音書を記した人もそれを知っていたであろうと思われます。つまり、乙女が子を産むということはあり得ないということを、よく知っていたにもかかわらず、ルカ福音書の記者はあえてこの出来事を私共に伝えようとしているのであります。

 私共は、日々の生活の中で、どのように神様に向かい合っているでしょうか。聖母マリアは、少なくともこの出来事に中で、人間の側から神様の出来事を見ようとしてしまっています。「どうして、そのようなことがありえましょうか。」と口にしてしまいました。そして、人はともすると、こうした発想で神様の御旨や御力を考えてしまいがちでございます。言い換えれば、主の御旨を追い求める信仰ではなく、自らの思いを、あるいは知識を神に認めさせようとしていないでしょうか。それも、自分たちにとって都合のいい知識と考え方をです。あるいは、教会という名の人間の集団や歴史を、神様に認めさせ、それを維持することが信仰だと決めつけ、「福音」という言葉が人間の想いいの中で一人歩きをしていないでしょうか。

「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」聖母マリアは、主の戒めを心にとめ、こう告白しました。「お言葉どおり、この身に成りますように。」とは、すべてを神にお委ねする信仰の告白でございます。「この身に成りますように。」とは、そして、神が為される御業のすべてを、神の御旨として受け容れることを意味する告白でございます。12月21日は、降誕節第4主日ですが、正に、この主の御旨であるキリストの御降誕を迎える最後の日曜日でございます。この時に、人間的な想いのすべてを捨て去り、「お言葉どおり、この身に成りますように。」と告白した聖母マリアの信仰を、人間の知識と想いのすべてを越えて、私共もこころから告白し、主の御旨の道を歩み始めたいと思います。

【 祈  り 】
 主よ、私共は日々、自分たちの想いによって、あるいは自分たちの知識によって、あなたの御旨から離れて生きていこうとしてしまいがちですが、しかし、主よ、降誕節第4主日にあたり、もう一度、私共が自分たちの想いを越えたところにいらっしゃるあなたの御旨を受け容れ、あなたの御旨を生きることが出来ますように。
 私共の主イエス・キリストの御名によってお願いいたします。アーメン



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