主日説教
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 顕現後第二主日 2009年 1月18日 ヨハネ福音書1章43節~51節 † † † † † † † † † † † † ひとは神になることも、神のようになることもできません。あるいは、自分から神に会おうとしても、神に出会えるものでもありません。これは、あのペトロをはじめ、主イエスの御弟子でさえそうでした。彼らは皆、主イエスから近寄ってきて下さっています。フィリポの場合もそうでした。聖書には、フィリポは主イエスを探していたとは記されていません。主イエスは、ガリラヤへ行こうとされた時に出会ったとだけ記されています。この出会いが、フィリポを変えました。それも、「わたしに従いなさい」という、主イエスご自身の御言葉によってだけです。それ以上に、聖書は説明しようとしていません。 私にも今までに、人生を大きく変えられた出会いがあります。その方に出会ったのは、自分が計画してのことではありません。本当に偶然のことでした。もちろん、私はその方のことを存じ上げておりませんでした。あることで、すべてが行き詰まっていた時に、ふとしたことから出会うことが出来たのです。しかし、その方に出会うことによって、行き詰まっていた私の仕事が、大きく道を開かれました。主の御用のために何をどう考えたらいいのか、何をどうしたらいいのか、そして何を目指していったらいいのかをはっきりと示されはじめております。 フィリポがナタナエルに出会ったのも、間違いなく、神のご計画によるものでした。ひとがひとに出会うことも、そしてその方に出会うことによって大きく変えられることがあります。ナタナエルはフィリポから主イエスのことを聞いた時に、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と彼自身の知識で答えてしまいました。この言葉は、ある意味ではナザレという町を軽蔑しているように聞こえます。しかし、彼はそれまでに得た旧約聖書に記されたことを心に思い浮かべたのです。にもかかわらず、ナタナエルは変えられます。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」という主イエスの言葉に主はこう答えられたからです。「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」。 主はすべてをご存知でいらっしゃいます。聖書は私共に、はっきりとそれを示しています。そして、時として、思いも寄らないところで、思いも寄らない人々との出会いの中で、主は私共に道を示し、私共を導き、支え続けていて下さいます。そして、私共が歩むべき道を、聖書を通して私共に示して下さいます。ペトロ・ヤコブ・ヨハネをはじめ12人の御弟子に出会われたのも、主が彼らのところへ来て下さり、主が彼らを招いて下さったからでありました。私共は、この混乱する時だの中にあって、多くの方々との出会いの中で、主イエスに出会いたいものです。私共は、聖書を通して、また聖霊のお導きによって主イエスに出会うことが出来ます。私共が「聖書のみ」という信仰を持っているということは、そうしたことでもあります。 【 祈 り 】 PR |
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