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主日説教
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ヨハネ福音書9章1節~14節
 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。
 人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。
                  (日本聖書協会『新共同訳聖書』)

 「人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。」
 ヨハネはここで、急に話を転換させます。理由は、この後に続く、この盲人であった人とファリサイ派の人々との対話を記そうとしているからですが、ヨハネはまず、人々の目の前で起こったことを記しています。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」主イエスはそう言われて、一人の盲人の目を癒されています。 
 「イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。」
 どうして目が癒されたのかだけをヨハネはまず語っています。
 主イエスが唾で泥をこねて盲人の目に塗り、シロアムの池で洗ってくるようにとその盲人にいわれると、この盲人は言われるままのことをしました。「目が見えるようになって、帰って来た」。ただそのことだけをまずヨハネは語っています。「『遣わされた者』という意味」という説明は、ヨハネ福音書を読む人々がヒブル語が判らなかった為でしょうが、それ以外の説明を一切ヨハネはしていません。


 私共は、何かのことが起こると、まずそれを解釈しようとしてしまいます。「何故この人は目が見えなくなったのか」、主イエスの弟子たちでさえ主イエスにそう尋ねてしまいます。しかし、主イエスの口から出たことはそうしたことへの解釈でも弁明でもありませんでした。ただ、そこでこれから起きようとしていることを説明されたのでございます。
 「神の業がこの人に現れるためである」
 つまり、この盲目の人は人々に神の御業を主イエスがお示しになるためにここにいるのだという事実を説明しているのであります。そして、神の御業がどのような仕方で表れるのかを人々に示します。「シロアムの池に行って洗いなさい」、主イエスはただそれだけを盲人にお命じになりました。
 そして、盲人の目が見えるようになった。
 ここにはファリサイ派の人々はいません。盲人の目が癒された後で、彼らはこの出来事を耳にしているのです。


 エフェソの信徒への手紙 5章8節~14節
 「 あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。――光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。――何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。
 『眠りについている者、起きよ。
  死者の中から立ち上がれ。
  そうすれば、キリストはあなたを照らされる。』」
 14節の『 』の中は初代教会の復活の讃歌かもしれません。
 その後にはこう続いています。(15節~
 「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。」
 ファリサイ派の人々は安息日の規定に縛られています。この盲人の目がどうして治ったのかということが見えていません。見ようともしていません。
 「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。」
 パウロはエフェソの人々にそう語りかけています。
 「無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。」
 ファリサイ派の人々、それはイスラエルの指導者でもありました。しかし彼らは見えていないのです。彼らが待ち望んでいたはずのメシア・キリストが来られていることが見えていないのです。


 ファリサイ派の人々は、この盲人に起こった事実を認めようとしません。
 ヨハネ福音書9章24節~25節
 「 さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。『神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。』彼は答えた。『あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。』
 私共はともすると、このファリサイ派の人々と同じように、追い求め、付き従っているはずのメシア=キリストを見失ってしまいがちです。ファリサイ派の人々のように、自分たちの信念や社会的地位にしがみついてしまいます。自分や自分たちと同じような人々の中でだけ、物事を考えてしまいがちです。しかし、主が癒されたあの盲人は、人々の「その人はどこにいるのか」という問いにこう答えています。
 「知りません。」
 この盲人は知らなかったのです。どこの誰かも知らなかったのです。 生まれながら見えない自分の目を見えるようにして下さった方が、どこへ行かれたのかも知らなかったのです。しかし、主は、そうした方の目を、「目が見えるようになって、帰って来」させて下さったのです。
 この四旬節の時、十字架に死に給うた主イエス・キリストのお姿とその御言葉を、しっかりと想い起こしたいと思います。

【祈 り】
 主よ、すべてを感謝いたします。
 犠牲の小羊としてあの十字架に死に給うた主イエス・キリストが、いま誰と共にいられるのかを見失うことがありませんように、知恵と力と信仰を増し加えていて下さい。この四旬節の時、心を静め、魂を鎮めて、主の御旨が何であるかを覚え続けさせていて下さい。
 あの日、ゴルゴタの丘で十字架に架かり給うた主イエス・キリストの御名によってお願いいたします。アーメン。

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