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主日説教
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受難の主日           2008年3月16日

マタイ福音書27章11節~14節
  さて、イエスは総督の前に立たれた。総督がイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と言われた。祭司長たちや長老たちから訴えられている間、これには何もお答えにならなかった。するとピラトは、「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」と言った。それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った。

    †  †  †  †  †  †  †  †  †  †  †  †


 「キリスト教は殺された人を拝んでいるのですよね」ということを何回か耳にしてきました。キリスト教を貶すためにそうおっしゃっていた方もいますが、真剣に主イエスの死が何であったかを考えようとされている方もいらっしゃいました。音楽がお好きな方で、バッハのマタイ受難曲が好きだという方がいらっしゃいました。そして、あの壮大な楽曲の中で歌われているのは、正にマタイ福音書そのものです。「来たれ、娘たちよ、われとともに嘆け(Kommt, ihr Tochter, helft mir klagen)」という歌詞ではじまる序唱から、そこには既に死のイメージを連想させる旋律が流れています。そして、あの序唱の主旋律は、ベースにあります。それも、低い音が連続し、嘆きのイメージが止めどなく流れます。
 「死は嘆きですか?」その音楽のお好きな方はそうお尋ねになりました。


 「イエスは総督の前に立たれた。」
 あの時代、ローマからエルサレムに派遣されてくる総督の前に立たされるということは、明らかにローマ帝国に反抗する者と言われている人々でした。
 「お前がユダヤ人の王なのか。」
 ピラトは主イエスにそう尋ねました。もしこれが事実であれば、明らかなローマ帝国への反逆です。エルサレムはローマ帝国の支配地域であり、ローマ帝国の法律によって治安が維持されていました。ですから、「ユダヤ人の王」はいてはならないのです。そして、マタイ福音書では、主イエスはダビデの子孫でもあったことが第1章で明確に示されています。
 「それは、あなたが言っていることです。」
 この部分は、以前の口語訳聖書では「そのとおりである」と訳されていますが、原文からすると「あなたはそう言っている」と訳した方がいいように思えます。


 「仏教では、死んだら仏様になると考えられていると思っている人々が多いのですが、実際には仏教では死で終わりです。ですから死ぬ前に悟りを得なければなりません。しかし、キリストは死んでしまうのですよね。」
 先程の音楽のお好きな方はこうおっしゃいました。
 今日の聖書の個所は、正に死刑が求刑されている裁判の判決公判のような場面です。ローマから派遣されている総督の前で最終的に決定されます。主イエスの弟子たちでさえこの場所にはいません。
 「主イエスの死は、人間の死とは別です。神の子が、神の御旨によって、犠牲の小羊として、イスラエルの過越の祭で小羊が焼かれている時に、カルバリの丘の上で十字架にかけられたのです。それは、人間の愚かさや過ちをすべて赦し、罪の世界から人間を救い出すために神がなされたことだったのです。それは、あのマタイ受難曲の45番・46番の中で、主イエスのことを知らないと三回、"nicht" と言っているペテロの罪をも赦すためのものでもありました。但し、ペテロは三回、主を知らないと言ってしまった後で、大声を上げて泣き叫んでいますよね。あの心が、あの涙が、そしてあの痛恨の叫びが、主イエス・キリストの十字架の死によって赦されるのです。命です。主イエスの死は、私たち人間にとっては命です。あのペテロの涙と叫びを私たちが共有できる時、ひとは赦されて、神様のお恵みと平安の中で、神の御旨を生きることが出来るようになります。」
 その音楽のお好きな方は、じっと目を閉じてこの話を聞いて下さいました。


 主の死はけっして終わりではありません。  
 正に、私共もが永遠の命の世界に入ることの出来る、たった一つの道です。よく葬儀の時に読まれる聖書の個所がございます。

 ヨハネ黙示録 21章1節以下
 我また新しき天と新しき地とを見たり。これ前の天と前の地とは過ぎ去り、海もまたなきなり。我また聖なる都、新しきエルサレムの、夫のために飾りたる新婦のごとく準備して、神のもとを出、天より降るを見たり。また大いなる声の御座より出るを聞けり。曰く、『視よ、神の幕屋、人と共にあり、神、人と共に住み、人、神の民となり、神みずから人と共に在して、彼らの目の涙をことごとく拭い去り給わん。今よりのち死もなく、悲嘆も、号泣も、苦痛もなかるべし。前のもの既に過ぎ去りたればなり。』

 そして、この主の御受難の週、主が私共一人々々に永遠の命への道を示し、そして死という一つの門をくぐって新しい永遠の命にに招き入れられるために、十字架に死んで下さったことを魂に深く刻み続けて過ごして参りたいものです。
 あの音楽のお好きな方は、あれから数年して、東京のある教会で洗礼をお受けになられたそうです。「今よりのち死もなく、悲嘆も、号泣も、苦痛もなかるべし。前のもの既に過ぎ去りたればなり」とだけ記された葉書が、私のところに送られてきたことがございました。

【祈 り】
 主よ、あなたが私共の罪を赦すために、あなたご自身の御子主イエス・キリストをこの世にお遣わしになり、犠牲の小羊として十字架に架けられたことを思い、心から罪を懺悔し、悔い改め、その十字架のお恵みの道を、私共自身の十字架を背負って歩むことが出来ますように、知恵と力と信仰を増し加えていて下さい。そして、主イエスの御復活のお恵みに与ることが出来ますように。
 あの日、十字架にお掛かりになるために、ロバの子に乗ってエルサレムに入られた、平和の主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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