主日説教
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 復活節第3主日 2008年4月6日 ルカ福音書24章28節~35節 † † † † † † † † † † † † かつて日本で「飽食の時代」という言葉が使われました。そして、その飽食の時代が続くと、誰も「飽食」という言葉を使わなくなりました。そして、それに替わって「メタボ」=メタボリック・シンドロームという言葉がブームになっています。確かに、現代日本ではしかし、飽食の時代が続いているように見えます。「メタボ」はその結果として起こってきたことではないでしょうか。しかし、この「メタボ」の蔭にどのようなことが起こっているかを、多くの人々は気が付いていません。 「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。」 先主日に読んだ聖書の個所は、十字架の出来事が起こったあと、主の弟子たちが集まっている時に起こった出来事でした。福音書を読む範囲では、主イエスとその弟子たちの食事は、本当に粗末なものだったと思えます。食卓に様々な料理が並んでいた食事は、もしかするとザアカイの家で食事をされた時だけかもしれません。 二人はすぐに「エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言って」いました。御復活の主は様々なところに表れていたのです。そして彼らも、「道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話」したのです。教会はこの御復活の主の証人たちの群れです。そして、御復活の主が現れたのは、神殿や宮殿の中ではありませんでした。主が出会われたのは、神殿に使える祭司でもなく、宮殿に住む王や貴族でもありませんでした。マルコ福音書6章6章7節以下にはこう記されています。 【 祈 り 】 PR 復活節第2主日 2008年3月30日 ヨハネ福音書20章24節~29節 † † † † † † † † † † † † ヨハネ福音書は、主イエスが十字架にお掛かりになり給うた時以来、週の初めの日には、弟子たちが集まっていたことを強調しています。あの御復活の日にはユダとトマス以外は一軒の家に集まっていました。19節以下にそれが記されています。但し、そこにはトマスはいませんでした。トマスがあの日どこで何をしていたかに付いては、ヨハネ福音書は沈黙しています。そして、そのトマスは、他の弟子たちが「主を見た」というとこう答えたのです。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」 ひとはいつも、トマスと同じように、自分の目で見なければ信じようとしないことが多いかもしれません。残りの10人の弟子たちも、ある意味では同じでした。今日の聖書の個所の前の部分には、主が弟子たちにそのお姿を現されたときのことが記されていますが、「あなた方に平和があるように」と主に言われ、手とわき腹を主がお見せになられたので、それが主であることが判り喜んだと記されています。もしあそこで、主が手とわき腹をお見せにならなければ、彼らが信じたかどうか。ヨハネ福音書はそれに関しても沈黙しています。ただ、あのペテロともう一人の弟子は、主イエスが葬られた墓の中に、主イエスの遺体がないことを確認していたにもかかわらず、家に帰ってしまっていました。彼らは、消えた主の体を探しには行っていないのです。
「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。
† † † † † † † † † † † † 主イエスが十字架で息を引き取られた時、つまりひとの罪を赦すために犠牲の小羊としてあのゴルゴタの丘の上で十字架に架けられて殺された時、そこにはあの十二弟子はいませんでした。弟子たちは逃げたのです。そして、隠れた場所で息をひそめていたのかもしれません。そしてこのことを知った時に、「何故逃げたのか」と弟子たちの行動を訝ったことのある方も多いのではないでしょうか。そうした中で、マグダラのマリアは安息日が終わった後、まだ暗いうちから墓へ行きました。 二人の弟子たちは、目の前に起こっていることの意味に気が付いていません。ヨハネ福音書の記者は、遺体が盗まれたのではないことをはっきりと示そうとしています。 この世にあって主なる神が何をなされようとされているのか、あのペテロたちでさえ気が付いていなかったのです。 「この弟子たちは家に帰って行った。」
受難日 2008年3月21日 ヨハネ福音書19章28節~30節 † † † † † † † † † † † †
苦役を課せられて、かがみ込み イザヤ書53章7節以下にある「主の僕」と呼ばれる個所です。
【祈 り】 受難の主日 2008年3月16日 マタイ福音書27章11節~14節 † † † † † † † † † † † †
ヨハネ黙示録 21章1節以下 そして、この主の御受難の週、主が私共一人々々に永遠の命への道を示し、そして死という一つの門をくぐって新しい永遠の命にに招き入れられるために、十字架に死んで下さったことを魂に深く刻み続けて過ごして参りたいものです。 【祈 り】 |
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