忍者ブログ
主日説教
[14] [13] [12] [11] [10] [9] [8] [7] [6] [5] [4]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

 復活節第4主日       2008年4月13日

ヨハネ福音書 第10章1節~10節
 「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。
 イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」

   †  †  †  †  †  †  †  †  †  †  †  †

 「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」
 羊が羊飼いの後に付いていくのは、羊飼いと共にいることが最も安全であり、自分たちに必要なものを備えてくれるからに他なりません。しかし、盗人は自分たちを食べてしまったり、殺したりしてしまいます。
 「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。」
 主イエスは、ご自身がどのような存在であるかをファリサイ派の人々に伝えているのですが、彼らはそれを聞こうとしませんでした。
 「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」

 私共はいま、誰の後ろを歩いているでしょうか。
 誰の背中を見て生きているでしょうか。

 「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。」

 羊は囲いの中に残ることも選べます。しかし、羊飼いが何故、自分たちの囲いに入ってきたのかを知っている羊は、羊飼いの後を追って歩いていきます。何の疑いも持ちません。それは、羊飼いの後を付いていく先に、何が待っているかを知っているからです。
 羊飼いは羊に必要なものをすべて備えてくれます。嵐が来る前に、安全なところに避難させてくれます。傷ついた羊、小さな羊、幼い羊をその腕で抱き上げ、群れの先頭に立って歩いていきます。獰猛な動物が近寄れば、自分たちを護ってくれます。のどが渇いた頃になると、井戸のあるところに導いて水を飲ませてくれます。

 「しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」

 ファリサイ派の人々はここまで言われても気が付いていません。目の前で話をして下さっているのが、彼らが待ち望んでいたはずのメシア=キリストであるにもかかわらず、彼らはそれに気が付いていません。そこで主イエスは、次のように語りはじめました。
 10章11節
 「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。」

 マタイ福音書18章12節には次のような主イエスの言葉が記されています。
 「ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。」
 迷い出た羊を捜しに行くのであれば、仲間に追い出された羊を捜しに行かないでしょうか。それも、主は命がけで探しに行かれます。そう、私共のように勝手気ままな歩みをしているものたちをも、主は捜していて下さるのです。

 「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」
 主は十字架にお懸かりになるという仕方で、私共を護って下さったのであります。私共を命の泉に導いていて下さるのです。ここまで主がお示しになっても、ファリサイ派の人々は気が付きませんでした。そこで、主イエスはこうもお語りになられました。
 ヨハネ福音書10章16節以下
 「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。わたしは命を、再び受けるために、捨てる。」
 私共にとりまして、真実の羊飼いは、あの十字架に死に給うた主イエス・キリスト以外にはいません。私共にとりまして、真実の門は、あの主イエス・キリストしかいないのです。主はこうも続けられました。
 「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。

 主は自らゴルゴタの丘を目指して歩かれて行かれました。そしてマタイ福音書は次ぎのような主イエスの御言葉を私共に伝えています。
 「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(16章24節)

 私の好きな讃美歌に、次のようなものがございます。

  「ドロローサ」 詩・曲 山内修一

  わたしの罪のために 重い十字架負わされ
  あざける人の中を 耐えて行かれたイエスよ
  ドロローサ ドロローサ カルバリの丘へ
  ドロローサ ドロローサ のぼってゆく道

  わたしの胸の中に 刻まれた主の十字架
  いばらの冠つけて 祈られる主の姿
  ドロローサ ドロローサ 悲しみの丘へ
  ドロローサ ドロローサ のぼってゆく道

  わたしは行こう今日も 主の歩まれた道を
  血潮の跡をたどり 十字架を負って続こう
  ドロローサ ドロローサ よろこびの丘へ
  ドロローサ ドロローサ のぼってゆく道

  血潮の道はつづく 十字架の跡のこして
  あがないの丘こえて 父なる神の御座に
  ドロローサ ドロローサ なつかしの国へ
  ドロローサ ドロローサ のぼってゆく道 

 そして福音書は、ドロローサ(悲しみの道)と呼ばれるこの道の向こうに見える十字架だけではなく、そこを越えた勝利を告げています。
 「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」(ヨハネ福音書10章18節)

 今日は復活節第4主日でございます。
 私共は、あの御復活の主にまみえることが出来る日まで、主イエスが示された道を、自らの十字架を背負いながら歩んでいく決意を、この時、また主に新たにしていただけるように祈り求めたいと思います。

【 祈 り 】
 主よ、御子主イエス・キリストの十字架の道を、主を見上げながら、主の御跡を追い続けながらあるき続けることの出来る信仰を、いまこの時、新たにして下さい。そして、あなたがいま、どこで何をしようとされているのかを知り、その主にお仕えすることの出来る、知恵と力をお与え下さい。
 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。
 アーメン。
 

PR


忍者ブログ [PR]
カレンダー
03 2024/04 05
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30
カテゴリー
フリーエリア
最新コメント
最新トラックバック
プロフィール
HN:
No Name Ninja
性別:
非公開
バーコード
ブログ内検索
カウンター
アクセス解析
カウンター