主日説教
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ルカ福音書1章26節~38節 † † † † † † † † † † † † 教会は、この聖書の個所を今までに何回読んで来たでしょうか。おそらく、クリスマスが来るたびにこの聖書の個所を読んできました。そして、主イエス・キリストがお生まれになった時の出来事を、信じ続けてきたはずです。ごく一部のキリスト教会では、この聖書の個所にある、「処女降誕」を科学的には考えられないという理由から否定することもありました。そして、その教会が属している教派では、かなり大きな問題になるだろうと思っておりましたら、あまり大きく取り上げられもせず、そう発言した聖職が戒規に付されるということもありませんでした。しかし、「科学的にあり得ない」ということが理由であれば、聖書の中に記されている信仰は、すべて、人生論になってしまうことは避けられませんし、聖書の時代にも「処女降誕」は起こり得ないと考えられていたことは、この聖書の個所自身が私共に教えてくれています。 「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」という聖母マリアの言葉が示している意味は、二千年前の人々もよく知っていたことであります。ですから、当然のこととして、このルカ福音書を記した人もそれを知っていたであろうと思われます。つまり、乙女が子を産むということはあり得ないということを、よく知っていたにもかかわらず、ルカ福音書の記者はあえてこの出来事を私共に伝えようとしているのであります。 私共は、日々の生活の中で、どのように神様に向かい合っているでしょうか。聖母マリアは、少なくともこの出来事に中で、人間の側から神様の出来事を見ようとしてしまっています。「どうして、そのようなことがありえましょうか。」と口にしてしまいました。そして、人はともすると、こうした発想で神様の御旨や御力を考えてしまいがちでございます。言い換えれば、主の御旨を追い求める信仰ではなく、自らの思いを、あるいは知識を神に認めさせようとしていないでしょうか。それも、自分たちにとって都合のいい知識と考え方をです。あるいは、教会という名の人間の集団や歴史を、神様に認めさせ、それを維持することが信仰だと決めつけ、「福音」という言葉が人間の想いいの中で一人歩きをしていないでしょうか。 「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」聖母マリアは、主の戒めを心にとめ、こう告白しました。「お言葉どおり、この身に成りますように。」とは、すべてを神にお委ねする信仰の告白でございます。「この身に成りますように。」とは、そして、神が為される御業のすべてを、神の御旨として受け容れることを意味する告白でございます。12月21日は、降誕節第4主日ですが、正に、この主の御旨であるキリストの御降誕を迎える最後の日曜日でございます。この時に、人間的な想いのすべてを捨て去り、「お言葉どおり、この身に成りますように。」と告白した聖母マリアの信仰を、人間の知識と想いのすべてを越えて、私共もこころから告白し、主の御旨の道を歩み始めたいと思います。 【 祈 り 】 PR |
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