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主日説教
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 復活節第5主日       2008年4月20日

ヨハネ福音書 第14章1節~14節
「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」 

   †  †  †  †  †  †  †  †  †  †  †  †

 時々、「祈っているだけでは駄目だ。しっかりとした意志を持って行動しなければ、祈っているだけでは、何事も成就しない」という内容のことをおっしゃる方がいらっしゃいます。すると必ず、「信仰とは祈ることです。神様がきっと良い道を備えて下さいます。私たちが救われるのは信仰によるのであって、行いによるのではありません」と反論される方が出てきます。私もそうした場面に今まで何十回となく出会ってまいりました。そして、その結果、この世の悪に対して戦いを挑んでいこうとされる方が出てまいりますが、しかし、時としてそれがポーズで終わってしまっていることもよく見掛けます。困っている人々のために行動しているのですが、よく見ると、あまり当たり障りのないことに対して、自分の立場を護りながらしていることが判ってしまいます。先日、ある方がフィリピンのことをお話しして下さいました。米も小麦も大幅に不足しているそうです。しかし、NGOなどを通してお金を送っても、途中でほとんど消えてしまうそうです。それでは何にもならないので、米をご自分で背負ってフィリピンまで行くしかないとおっしゃるのです。ある意味では、当然命がけのことです。1俵は約60キロです。担ぎ易い背負子を使えば担ぐことは出来るかもしれませんが、慣れていなければ歩くのは非常に危険ですし、腰の骨を痛める可能性は非常に高いです。しかし、その方の言葉の奥に、真実の情熱と想いがあるのがはっきりと見えました。


 12節「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。」
 主イエスがどのような道をお通りになって、父なる神のところに行かれようとされているのかを、主イエスご自身は弟子たちにお話になられました。「わたしが父のもとへ行くから」、「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる」と主イエスは弟子たちにお話しになられました。主イエスはこの時、既に、ご自身がどのようにして死ぬかということをご存知でいらっしゃいます。そしてそれが誰の為であるかということもご存知でいらっしゃいます。
 主イエスはフィリポにこう語りかけていらっしゃいます。
 「わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。」
 信仰は、ただ闇雲に信じることではありません。主イエスは、フィリポに対して、目の前にいるご自身を見よ、と語りかけ給うているのです。


 かつて、あるところで、「むかしは伝道と言っていたが、最近は宣教と言うようになった」ということをある聖職者から耳にしたことがあります。大変に残念な思いがしました。「伝道」はある時代には、自分たちの持っている信仰だけではなく、文化や習慣を押し付けるようにして、他者にキリスト教の信仰を伝えることを意味していました。しかし、1960年代になって、キリスト者にとってしなければならないことは、この世で今も働いて居給う神の御業=宣教に参与することを「宣教」というようになってまいりまして、信仰とは、あの十字架と御復活のお恵みを受けて、今もこの世にあって働いて居給う神の宣教の御業に参与することであると考えられるようになりました。
 アメリカ大陸の開拓時代、キリスト教会は多くの過ちを犯してしまいました。アメリカ大陸に住んでいたネイティブの男の子供たちに対して、その長い髪の毛を切りました。彼らにとっては、長い髪は力の源だったのです。彼らは、二度と学校へ来なくなりました。あるいは、ネイティブの方々にとっては、村の中にあるもののほとんどが共有物でした。テントの前に置かれている鍬は、誰が使ってもいいものでした。そして、使い終わった後で自分のテントの前に置いておいてもまったく問題になりませんでした。白人の学校で、あるネイティブの子供が隣の席の子供の筆記用具を無断で使い、自分のところに置いておきました。そしてそれが見つかったとき、その子供は「泥棒」として折檻を受けました。
 ヨーロッパのキリスト教社会では当たり前のことが、しかしアメリカ大陸のネイティブの方々の中では当たり前のことではありませんでした。


 12節「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。」
 信仰は、祈りは、神の宣教の御業に私共を導きます。主はいま、どこで何をなし給うとしているのかを、聖書の御言葉によって、また祈りによって知るからです。しばらく前に、マザー・テレサの映画を見ました。日々祈り、告解をし、御ミサのお恵みに与るあのマザー・テレサの生き方の向こうに、父なる神がそこで働いて居給うことを教えられました。マザー・テレサとあのシスターたちは、目の前にいる苦しんでいる人々のために、悲しんでいる人々のために、死に向かっている人々のために、ただただ神の宣教の御業にお仕えしていらっしゃいました。
 そして聖書は、今も、そうした生き方をしようとすることに対して、私共に確実な約束とそれ故の慰めを語り続けています。
 14節「わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」


【 祈  り 】
 主よ、御言葉を感謝いたします。どうか私共に、あなたの宣教の御業にお仕えをすることの出来る信仰と勇気と知恵と力を与えて下さい。私共はあなたにお仕えいたします。
 私共の主イエス・キリストの御名によってお願い致します。アーメン。


  お詫び
   私、メヒコ佐々木は、所用のため海外におりますので、
  この説教はある方にお願いして書いていただきました。
  あしからずご了承下さい。
   主の平和

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