主日説教
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 顕現後第六主日 2009年 2月15日 マルコ福音書第1章40節~45節 † † † † † † † † † † † † 新聞やインターネットに「訃報」と題して、お亡くなりになられた方のことが出ておりますが、死因の多くは「肺炎」と記されています。「ガン」と書かれていることは少ないように思えます。確かに、直接の死因は肺炎であるのですが、それ以前からガンを患っていらっしゃった方でも、「肺炎」と記されていることが多いと聞きました。理由は、「ガン」と記すと、残されたご遺族に不利益になることがあるからだということも耳にしたことがあります。今でも、履歴書に両親の死因を記させるところがありますが、そこに「ガン」と書いただけで、ある種の偏見が生まれているようです。 今日の聖書の個所は、ハンセン病患者を主イエスが癒された時の記事です。「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」というハンセン病を患っている方の言葉に、主は深く憐れみ、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」とおっしゃいました。皆さんはこの個所をお読みになってどう思われるでしょうか。「手を差し伸べてその人に触れ」というところです。現在はハンセン病に関する見解が大きく変わって、感染症ではありながらその伝染力は極めて低いことが確認されています。しかし、そうした時代にあっても、「手を差し伸べてその人に触れ」という言葉にたじろぎを感じる方も多いのではないでしょうか。 「四苦八苦」という言葉があります。「四苦」とは、「生・老・病・死」の四つの苦しみです。そして「愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦」を加えると「八苦」になります。是は仏教的な理解ですが、しかし、聖書にもこうした苦しみについても書き記されています。主はそうした苦しみの中にある人々に対して、「手を差し伸べてその人に触れ」ようとされていることを、今日の聖書の個所は私共に告げ知らしめています。そして、「誰にも話さないように気をつけなさい」という主の言葉を、このハンセン病を癒された人は守れませんでした。この人は「大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた」のです。 ひとは、ともすると僻みや妬みを心の中に持ちます。このハンセン病だった人の証言を聞いて、羨望の眼差しをもった人々もいたかもしれません。しかし、聖書はそれを問題にしていません。聖書は「イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。」と記しています。人々は「手を差し伸べてその人に触れ」た主イエスのところに来ていることを聖書は書き記しています。聖書が告げる信仰の原点はここにあるのです。主がどこにいらっしゃるのか、主はそこで何をしていらっしゃるのか、それが私共クリスチャンの生き方の原点であり、私共はその主イエス・キリストの御業にお仕えしたいものでございます。 【 祈 り 】 PR |
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