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主日説教
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 聖霊降臨後第二十一主日       2008年10月 5日

マタイ福音書21章33節~43節
 「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。
 『家を建てる者の捨てた石、
  これが隅の親石となった。
  これは、主がなさったことで、
  わたしたちの目には不思議に見える。』
 だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。」 

   †  †  †  †  †  †  †  †  †  †  †  †

 マタイ福音書は、はじめにヒブル語で書かれ、それがギリシア語に訳されたと考えられてきましたが、しかし、様々な神学的考察から、ギリシア語しか話すことが出来なくなったユダヤ人たちの間に伝わっていた主イエスに関する伝承とマルコ福音書、そして、「イエス語録」とでも言うべき、現在は現存していませんが、原始教団が持っていた文書を編集して、初めからギリシア語で書いたものであろうと考えられるようになっております。勿論、弟子のマタイが記したわけではありません。

 そして、今日の聖書の個所などは、もしかするとそのマタイ集団と呼ぶことができるであろう、ギリシア語しか話せなくなってしまっているユダヤ人の間で語り伝えられていた譬え話であろうかと思われます。それも、当時の農業事情を非常によく知っていると思われる人々が語り伝えていたと考えられます。そして、現代にあっても実によく理解できる譬え話です。主人から委託された仕事を、主人の意思通りにそれを遂行するのか、それとも主人から委託されたということを利用して、私腹を肥やそうとするのか。

 この「ぶどう園」は、正に広い意味での教会であろうかと思われます。そして、ある意味では、この世における神の働き全体であるようにも思えます。神はいまもなお、この世にあって力強く働き給うています。そして、ひとをその働きに招き、駆り立て給うていらっしゃいます。この日本の社会の中にも、あるいは世界にも、神の御旨にそぐわないことが数多く起こっています。それは、聖書の御言葉を通して私共に示されています。「だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。」

 いまこの時に、目の前で起こっていることから目を逸らすことは、明らかに聖書のメッセージから遠く離れていると言わざるを得ません。目の前で起こっていることに対して、主の御旨は私共がどうすることなのか、それをこの聖書の個所はしっかりと見抜くことを要求しています。そして、神の国に相応しい生き方を、つまり主の御旨を生きることを要求されていらっしゃいます。。

【 祈  り 】
 主よ、あなたの御旨をいつも私共に聖書を通して示して下さっていることを感謝いたします。どうか主よ、私共があなたの御旨を受け入れ、その御旨を生きる知恵と知識と勇気を与えて下さい。あなたの御旨から逸脱した道を歩むことがありませんように。
 私たちの主イエス・キリストの御名によってお願いいたします。アーメン

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 聖霊降臨後第十九主日       2008年 9月28日

マタイ福音書21章28節~32節
 「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」 

   †  †  †  †  †  †  †  †  †  †  †  †

マタイ福音書3章1節以下
 そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。
 『主の道を整え、
  その道筋をまっすぐにせよ。』」
 聖書が語る福音は、人間的な幸福の論理や、自らの生き方を正当化するためのものではありません。ただ、神の御前に自らの罪を悔い改め、主の道を歩み続けることであります。

 そして、聖書が語る福音の原点に至る道はこのバプテスマのヨハネのメッセージに始まると言っても過言ではないと思います。私共の信仰も、そして、ここに始まります。
 「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」
 ここに重要な言葉があります。
 「あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」

 「彼を信じようとしなかった」というのは、悔い改めることが出来なかったことを意味しています。そうした意味では、「ヨハネの言葉を信じなかった」ということに近いかもしれません。ひとは時として罪を犯します。過ちを犯します。ある時には自分を正当化するために、弱い人々を陥れることさえあります。そうした過ちを認めることなく、そのままの生き方を続けるならば、そこには信仰はあり得ないというのが、今日の聖書のメッセージです。「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。」という主の御言葉は、明らかにそれを示しています。

 私共クリスチャンは信徒であれ聖職であれ、神のようにされた者でも、神のようになった者でもありません。むしろ、神の御前に自らが罪を犯し、過ちを犯し続けていることを懺悔し、生き方を変える決心をし、主が聖書を通して示し給うた悔い改めの道を歩む者たちの群れであります。ひとは、洗礼を受けると、罪を犯さなくなるわけではありません。日々、その時々に、主の御旨を忘れ、主の道から離れ去ろうとしてしまいます。しかし、主イエス・キリストは私共が悔い改めて、主の道に帰ることを私共に命じていらっしゃいます。

【 祈  り 】
 主よ、あなたの御子。主イエス・キリストのお招きを心から感謝申し上げます。
 どうか、日々過ちを犯し、罪を犯し、あなたの道から離れてしまいそうになる私共を、主よ、どうかあなたの道に帰らせて下さい。これまでに犯した過ちを、罪をあなたの御前で告白し、悔い改めることが出来ますように。
 私たちの主イエス・キリストの御名によってお願いいたします。アーメン

 聖霊降臨後第十九主日       2008年9月21日

マタイ福音書20章 1節~16節
 「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』
20:13 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

   †  †  †  †  †  †  †  †  †  †  †  †

 かなり以前に、ある青年からお伺いしたことがあります。彼が伝道を考える集まりに出席したときのことだったそうです。数十人の集まりだったようですが、いろいろな教会から青年達が集まっていたそうですが、その中で一人の青年が「私はボーン・クリスチャンです」と自己紹介されたそうです。先祖数代にわたってクリスチャンだったのかもしれません。しかし、私の知り合いの青年は、そうではありませんでした。小学校の時から教会に通い始めたそうですが、彼の家はクリスチャン・ホームではありませんでした。何故、「ボーン・クリスチャンです」と言わなければならなかったのでしょうか。何故、そう言いたかったのでしょうか。

 「天の国は次のようにたとえられる。」
 主イエスはそう言われて、この有名な譬え話を弟子たちにお話になられました。ぶどう園の譬えです。ぶどう園に朝から仕事に来ていた人も、お昼頃に来た人も、三時頃に来た人も、そして、夕方になって来た人も、同じように1デナリの報酬を受け取りました。この世の常識から考えれば、実におかしなことです。定時に来た人と、遅刻してきた人、そして終業間際に来た人を同じように処遇しています。労働基準法からすれば、明らかに間違ったことだと言わざるを得ません。

 私はある関係で、ある方の息子さんのご葬儀に出席したことがあります。私とは関係のない教派の教会の方でした、御父様はその教会の役員をされていらっしゃいましたが、息子さんの葬儀には牧師さんが何人もいらっしゃっていました。それから暫くして、御父様も天に召されましたが、その時には、その教会の牧師さんだけしかいらっしゃいませんでした。他の方々はどう思われたか判りませんが、御父様と息子さんは同じ教会の信者ざんです。その教会の方々が皆さんいらっしゃっていたようですが、何故か私には淋しそうに見えました。そして、その教会が属している教区からも、責任者の方はお見えになっていらっしゃいませんでした。

 「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。」主は、すべての人々を同じように見ています。主の十字架は主イエス・キリストに寄りすがろうとする人々に、同じように救いを与えて下さいます。そして、私共が宣べ伝えなければならないことは、この主イエス・キリストの十字架と御復活のお恵みなのではないでしょうか。

【 祈  り 】
 主よ、あなたの御子。主イエス・キリストの十字架による贖いをこころから感謝申し上げます。
 どうか、この十字架と御復活のお恵みを、すべての人々に、同じように語り伝えることの出来る信仰と知識と力を備えて下さい。人間的な想いによって、ひとを分け隔てすることがありませんように、罪深い私共を導き、私共が自らの罪を悔い改めながら、あなたの御子、主イエス・キリストを人々に示すことが出来ますように。
 私たちの主イエス・キリストの御名によってお願いいたします。アーメン

 聖霊降臨後第十八主日       2008年9月14日

マタイ福音書18章21節~35節
 そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」


   †  †  †  †  †  †  †  †  †  †  †  †

 「キリスト教は愛の宗教です。」とか、「ひとを裁いてはなりません。赦しなさい。」ということが教会の中で語られ続けてきました。そして、教会の中では、互いに愛し合い、互いに赦しあってきたかのように考えられてしまうことがあります。しかし、事実はどうだったでしょうか。一までに洗礼を受け、主の御もとに召されていない方々はすべて、現在受聖餐者名簿に名前が残っているでしょうか。その方々がいまどこで何をしているか、教会はそれをすべて知っているでしょうか。「多分、牧師さんは知っていらっしゃいます。」という答えが返ってきそうですが、教会員はお客様で、牧師はその接待役なのでしょうか。そして、長いこと教会に足を踏み入れることがなくなった方々の、その理由に関して、教会員は、何も知る必要がないのでしょうか。

 「その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。」
 この家来は、「どうか待ってください。きっと全部お返しします。」と言ったに過ぎません。負債の返済計画書を出したわけでもありません。自分が人々に貸しているものをすべて帳消しにします。」と言ったわけでもありません。にもかかわらず、この家来は赦されています。確かに、聖書が語る赦しは、こうしたものです。砂漠で「価なしに」水を飲ませてくれるようなものです。あの聖金曜日に、あの丘から離れたところで息をひそめていた弟子たちさえ、主の福音の使徒になったようなものです。しかし、聖書の赦しは、決して無条件の赦しではありません。

 「どうか待ってください。きっと全部お返しします」と言って、家臣がしきりに願ったので、この家臣はそに借金を赦されたのです。しかし、彼は、この謝罪の言葉を生きようとはしませんでした。目の前にいる人の借金返済を待たなかったのです。誰がどう考えても、身勝手な振る舞いであることに変わりはありません。神は、こうした人間の身勝手な行いを見過ごしません。主君の前に呼びつけられたこの家臣に、主君はこう宣言しました。「不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」

 教会はいつも、こうしたことに気を付けていなければなりません。ひとがこの主君の座に着くことも出来ません。聖職者であっても同じことです。人間は神の座に着くことは出来ません。悔い改めることのない人を、神に代わって赦すこともできません。休会における罪の赦しは神の出来事であって、ひとがそれをすることが出来るわけではありません。教会は、常にこのことを気を付けていなければなりません。教会の権威は、人間に付与されたものではなく、教会の中で働き給う神の御業です。主君をさえ牢に入れることの出来る神ご自身の御業です。その権威は、悔い改めるひとに関しては、しかし、「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」という神の権威でもあります。

【 祈  り 】
 主よ、あなたの御子。主イエス・キリストの御言葉を感謝いたします。
 どうか、私共も、自らの罪を悔い改め、その悔い改めに相応しい道を生きることが出来ますように。知恵と力と勇気をお与え下さい。
 私たちの主イエス・キリストの御名によってお願いいたします。
 アーメン

 聖霊降臨後第十七主日       2008年9月7日

マタイ福音書18章15節~17節
 「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。」


   †  †  †  †  †  †  †  †  †  †  †  †


 今日の聖書の個所は、新約学的に非常に興味深いところです。福音書の中で、「教会」という言葉が出てくるのは、マタイ福音書の2ヶ所だけです。おそらくこれは、マタイ福音書がマルコ福音書などに比べると、時間が経ってから記されたものだからであろうと思われます。単純に考えても、教会が成立したのはペンテコステの時だからです。マタイ福音書は、こうした教会の現実を伝えています。そして、「教会」が、あの主イエス・キリストを神の子・救い主であると信じ、あの主の十字架は、贖いの小羊であると信じ、御復活の主に出会ったという主の御弟子たちの言葉を信じた人々の群れであることは言うまでもありません。

 「すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。」と記されています。この「二人または三人の証人」は事件の目撃者かもしれません。あるいは、同じ人が犯した、同じような事件の被害者かもしれません。そして、聖書はこう続けています。「それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。」これは、既に教会が教会として、マタイ福音書が記されたときまでに組織化されていることを示しています。言い換えれば、マタイ福音書が記されたと考えられる一世紀の終わり頃には、教会が神の新しい集団として出来ていたことを意味しています。

 そしてマタイは、「使徒たちに」と書かずに、「教会に」と記しています。ここでは、出来事がある程度の具体性をもって記されていますから、この「教会に」という言葉が、所謂キリスト教会全体を意味しているわけではなく、それぞれの人が属している具体的な教会=洗礼を受けた信仰者の群れを意味しているのであろうと思われます。ですから、「使徒」や「司祭(長老)」だけではなく、信徒も含めた教会全体をマタイは「教会」と表現しているのであろうと思われます。

 「教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。」
 マタイ独自の神学です。「異邦人」はユダヤ人以外の人々を表しています。「徴税人」は、パレスチナ周辺をも支配しているローマ帝国に対する税金を集めているユダヤ人です。ですから、この「その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」という表現は教会からの正式な追放を意味しています。それだけに、「それでも聞き入れなければ」とか、「教会の言うことも聞き入れないなら」という条件節は、極めて重大な意味を持っています。


【 祈  り 】
 主よ、あなたの御子。主イエス・キリストの十字架による罪の贖いを心から感謝いたします。
 どうか、私共があの十字架のキリストを見失うことがありませんように。自らが日々犯してしまう過ちを心から悔い改めて、主の十字架の道を自らも十字架を背負って歩み続けることが出来ますように。
 私たちの主イエス・キリストの御名によってお願いいたします。
 アーメン



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