主日説教
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 顕現後第五主日 2009年 2月 8日 マルコ福音書第1章29節~39節 † † † † † † † † † † † † 最近の日本の情況を見ていると、ある種の倒錯が起きているように思えることがあります。今日の聖書の個所に、「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて」と記されておりますが、都会地でこうした生活をしていらっしゃる方々は、勤務開始時刻が早い方々だけではないでしょうか。しかし、農村では、戦後もこうした生活が続いていたので、今もその習慣を変えていない方々がいらっしゃいます。私の祖父は、夜8時頃になると寝ていました。そして、夏は朝4時前には起きていたようです。「蛍雪」という言葉がありますが、夜暗くなってから本を読むために、ランプを点すことが出来た人々は、都会地以外では、それ程多くはなかったのではないでしょうか。 「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」主イエスは、そうおっしゃいました。「町や村へ行こう。」それは、イスラエルの様々な人々に、神の御業を示すためでした。「わたしは宣教する」と訳されていますが、この「宣教する」と訳されているギリシア語、あるいは「宣教」と訳されているギリシア語が意味していることは、既にそこで働き給うている神の、その御業を明らかにすることを意味しているように私には思えます。人間の働きではご座いません。そして、主は悪霊を追い出したとありますが、「追い出す」というよりは「排除する」という強い言葉のようにも思えます。 このマルコ福音書は、福音書の中で最も早く記されたものであろうと考えられておりますが、その大きな特徴の一つとして、イスラエルの貧しい、農村や漁村の人々に主イエスが語りかけている部分が非常に多く見られることです。彼らにとっては、明るくなる前に起き出すことは珍しいことではなかったと思います。イスラエルの緯度は東日本とほぼ同じですから、夜明けと日暮れの時刻はそう変わりありません。ですから、「シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、『みんなが捜しています』と言った」ということになるわけです。 「そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」 【 祈 り 】 PR |
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