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主日説教
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 聖霊降臨後第五主日       2008年6月15日

マタイ福音書10章5節~8節
 イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、らい病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。

   †  †  †  †  †  †  †  †  †  †  †  †

 マルコ福音書1章14節~15節にこう記されています。
 「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた。」
 ここで主イエスが「神の国は近づいた」と言われているのですが、この「近づいた」と訳されているギリシア語の原語と、今日の聖書の個所にある「天の国は近づいた」と訳されている「近づいた」は、まったく原語でも同じ「エーギケン」という言葉が使われています。これは「エッグース」という動詞が変化したもので、元々は「近づく」という意味なのですが、「エーギケン」を完了の意味と考えることもできます。つまり、「時は満ち、神の国は近づいた」ではなく、「時は満ち、神の国は来ている」と訳すことも不可能ではありません。

 先日、東京の秋葉原で途轍もなく恐ろしい事件が起きました。私は音楽を聴くことが好きなので、秋葉原のジャンクショップでスピーカーやアンプの中古を探すことがあるのですが、あの事件があった場所は私がよく知っているところでした。ただ、日曜日の歩行者天国の時間に行くことはほとんどないので、歩行者天国の雰囲気は少ししか判りません。あそこに偶然いた方々が無差別な殺戮の被害者になってしまわれました。そして、「何故」という言葉が私の頭を過ぎりました。「何故、あの方はトラックで歩行者天国を走り、あの殺傷能力の高いナイフでそこにいた人々を殺してしまったのか。」

 「天の国は近づいた」
 「時は満ち、神の国は近づいた」
 聖書は明らかにそう言っているのですが、しかし、私共の目に映る現実は、あまりにも悲惨なことが多すぎます。そして、「天の国は来ている」「時は満ち、神の国は来ている」と訳すこともできる神の言葉が霞んでしまうことがあるようにも思える時があります。昨日の地震もそうでした。山間部の村々は未だに孤立しています。その村への出入り口になる道路が1本しかなければ、こうしたことはこれからいくらでも起きそうに見えます。しかし、もう一本の道路を造る為にかかる費用を村の人口で割ると、かなりの金額になることが判ると、多くの人々はそれを躊躇ってしまいます。

 「むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。」
 主イエス・キリストはそうおっしゃっています。どこから、どこに目を向けなさいと主がおっしゃっているのか、聖書は私共にはっきりとそれを示しています。
 「むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。」
 今頃、秋葉原へよく行っている若い人たちに対して、親御さんや周囲の人々は「もうあんなところへ行かない方がいい」とおっしゃっているかもしれません。しかし、聖書はそう語っているのでしょうか。教会の門を入ってくる人々だけに会いなさいと聖書は語っているのでしょうか。
 「むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。行って、『天の国は来ている』と宣べ伝えなさい。」

【 祈  り 】
 主よ、あなたの御言葉を心から感謝いたします。
 どうか、あなたの御言葉を生きる信仰と勇気を増し加えて下さい。
 そして、私共一人々々を、あなたの御旨を生きる者にして下さい。
 私共の主イエス・キリストの御名によって、アーメン。

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 聖霊降臨後第四主日       2008年6月8日

マタイ福音書9章9節~13節
 イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけ「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

   †  †  †  †  †  †  †  †  †  †  †  †

ホセア書第6章1節以下
「さあ、我々は主のもとに帰ろう。
 主は我々を引き裂かれたが、いやし
 我々を打たれたが、傷を包んでくださる。
 二日の後、主は我々を生かし
 三日目に、立ち上がらせてくださる。
 我々は御前に生きる。
 我々は主を知ろう。
 主を知ることを追い求めよう。
 主は曙の光のように必ず現れ
 降り注ぐ雨のように
 大地を潤す春雨のように
 我々を訪れてくださる。」
 エフライムよ
 わたしはお前をどうしたらよいのか。
 ユダよ、お前をどうしたらよいのか。
 お前たちの愛は朝の霧
 すぐに消えうせる露のようだ。
 それゆえ、わたしは彼らを
 預言者たちによって切り倒し
 わたしの口の言葉をもって滅ぼす。
 わたしの行う裁きは光のように現れる。
 わたしが喜ぶのは
 愛であっていけにえではなく
 神を知ることであって
 焼き尽くす献げ物ではない。 

 教会はいつも、主の御前に悔い改める者の群でなければなりません。喜びに満ち、高らかに讃美するためだけの、時と場であってはなりません。
 ホセアは、バビロニアの首都バビロンに捕らえられていた人々に向かって、「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし、我々を打たれたが、傷を包んでくださる。二日の後、主は我々を生かし、三日目に、立ち上がらせてくださる。」と高らかに宣言しながらも、そのバビロン捕囚からの解放が、人々の善行によって成就したのではなく、神が一方的な恵みとして与え給うたことを知っているが故に、「主のもとに帰ろう」と語った後で、「我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう」と語るのであります。

 今日のマタイ福音書の個所は、人々がいままでに何回も聞かされてきたこの旧約聖書の個所を人々に想い起こさせようとしてます。そしてそれは、マタイという徴税人の家での食事の時でありました。徴税人は、イスラエルと占領しているローマ帝国に納める税金を集めるのが仕事でした。ですから、彼らはイスラエルの人々からかなり蔑まれ、卑しめられていました。また、彼らは、集めた税金の中から一定の割合で定められた報酬を得ていましたから、イスラエルの一般的な民衆の収入よりも多くのものを得ていました。この食事の席に並んだものは、他の人々が普段食べているものよりも豊かなものであったことは間違いありません。

 もう大分以前のことですが、『一杯のかけそば』という小説がありました。創作か実話かで議論しているうちに、この作者が寸借詐欺の罪で捕まってしまい、そのことに社会の意識が向けさせられてしまったように見えました。映画にもなったこの小説ですが、しかし、「こんなことがあり得るのか」という議論まで発展していったのを記憶しています。しかし、多くの人々はあの小説に感動したのではないでしょうか。そして、その多くの人々が感動した理由は、正に飽食の時代に入っていた時の流れの中で、大切な何かを時代が見失ってしまったことに、気が付き始めたからだったのではないでしょうか。

 「金持ちが貧乏人になっても、貧乏人が金持ちになれるわけではない」という得体の知れない論理を平然と口にした方がいらっしゃいました。しかし、聖書ははっきりと私共に道を示しています。「わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく、神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない。」という言葉を告げています。あの私共の罪を赦すために十字架に死に給うた主イエス・キリストが、徴税人と共に食事をしている主イエス・キリストの弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と問い掛ける人々に、あのホセアの言葉をもう一度学び直すことを求めていらっしゃいます。憐れみとは何か、愛とは何かということを観念的に理解することではなく、あなたはどのように生きるかということを日々自分に問い掛け続けることを求めていらっしゃいます。


【 祈  り 】
 主よ、あなたに帰らせて下さい。
 あなたの御旨を生きる者にして下さい。
 私共の主イエス・キリストの御名によって、アーメン。


マタイ福音書7章21節~23節
 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」

   †  †  †  †  †  †  †  †  †  †  †  †

 中学や高校の歴史の授業で宗教改革のところを学ぶ時に、ルッターの「信仰義認」という言葉が出てきた教科書を使っていらっしゃった方もいらっしゃるかと思います。しかし、この言葉には極めて危険なものが潜んでいます。「信仰で救われるのであって、行いで救われるのではない」という言葉が、社会の問題や日常生活の具体的な問題で語られる時に使われていたことがありましたし、日本のプロテスタント教会ではこれから将来にわたっても、これが大きな問題になることは間違いないと思います。

 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」
 主イエス・キリストは、こうおっしゃっています。「わたしの天の父の御心を行う者だけが(天の国に)入るのである。」エミール・ブルンナーというドイツの神学者は、「信仰とは何かをしないことではなく、何かをすることだ」と講演会で語ったと、神学生時代に教授からお伺いしたのを覚えています。

 私共は、この人生の中で、日々の暮らしの中で、様々な問題にぶつかります。混雑した町の歩道で、人波の間をすり抜けていくようにその問題から目を背けるために、「私たちは信仰によって救われるのであって、行いによって救われるのではない」と考えてしまったら、「わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」という主イエス・キリストの言葉を完璧に見失ってしまいます。いま自分は何のために生きているのか、誰のために生きているのか、どこに向かって生きているのか、そうしたことを真剣に、そして深い祈りの繰り返しの中で聖書から示された道を歩んでいくこと、それが聖書が語る信仰であります。

 このマタイ福音書には「山上の垂訓」という主イエスの語録のような部分があります。あの個所を読んでも、信仰を個人の心の中の問題だということを読みとることは出来ません。「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」私共にとって、信仰の原点はここにあります。そして、教会のあらゆる権威もまた、この主の御言葉の下になければなりません。


【 祈  り 】
 主よ、聖書に書かれているあなたの御言葉を感謝いたします。
 どうか、罪深い私共を、あなたの御言葉によって導き、あなたの御前で日々罪を悔い改め、あなたの御用に仕える者とならせてください。ヘブライ人への手紙の著者はこう祈っています。「永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン。」
 どうか、私共もこの祈りに支えられて、あなたの御旨を生きることが出来るように、真実の信仰と真実の希望と真実の愛を私共が知ることが出来ますように、聖霊によってお導き下さい。
 私共の主イエス・キリストの御名によってお願いいたします。
 アーメン。


マタイ福音書6章24節
 「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

   †  †  †  †  †  †  †  †  †  †  †  †

 先日、ある新聞を読んでいました。
 そして、ある論説が目に入ったのですが、皆様も一度は耳にしたことのある大きな会社の社長さんのことが記されていました。この方は、この会社の株をたくさん持っていらっしゃいましたし、財産もそれなりにたくさん持っていらっしゃいました。そして、何かをきっかけに、社長の職を辞するに当たって、その株をすべて売却し、ご自分の財産と合わせて財団法人を設立し、障害者の方々が仕事を得られるために新しい事業をお始めになりました。財団法人ですから、たとえそれが解散するようなことがあっても、その方の手元にお金は残りません。そして、障害を持った多くの方々がそこで仕事をすることが出来るようになり、自らの手で収入を得ることが出来るようになったそうです。そして、その方がクリスチャンであることが、ほんの少し書かれてありました。

 「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」
 マタイ福音書を様々な角度から調べていくと、かつて言われていたような、貴族的集団の中で語り伝えられた伝承(M資料)とマルコ福音書とイエス語録(Q資料)から成り立っているのではなく、むしろ、一般庶民に中に伝わっていた伝承とマルコ福音書やQ資料が編集されているのではないかと思えます。マタイ福音書26章6節以下の「高価な香油」の個所では、「ナルドス」というヒマラヤ山系でしか採れない植物の名前が出てきていません。また、この香油は「ライト」と呼ばれる香料で、揮発性が非常に高く、柔らかい石で出来た壺に入れ、同じ石で作った蓋を膠などで密着した容器に入れてあります。ですから、その壺を割って使うのですが、マルコ福音書にはそれが記されているにもかかわらず、マルコ福音書を資料にしたはずのマタイ福音書がこれを欠落させたとすれば、マタイ福音書の編集者はナルドスの香油をまったく知らなかったということが考えられます。

 最初にお話ししたようなことを、アメリカでいくつも見たことがあります。若い頃は極めて貧しく、教会で結婚式が出来なかった資産家のご夫妻が、ご自分の教会に結婚式専用のチャペルを建て、残りの資産を運用して結婚式の費用を捻出するようにと財産をお捧げになったり、あるいは、病院付きの高齢者用施設をお建てになった資産家の方もいらっしゃいました。どちらも、その資産家のお名前が彫られた小さなプレートが入口に貼られているだけでした。別の州では、資産家の方が町の近くに持っていた土地とそこに障害を持った子供たちが学び、また遊べる施設をお建てになっていらっしゃいました。そして、驚いたことは、それらの資産家のご子孫の方々は、まったくその施設の運営に関わらないどころか、ほとんど訪ねていらっしゃらないそうです。

 同じマタイ福音書19章24節にはこう記されています。
 「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」ここで言われている「針の穴」というのは、エルサレムの城壁にある、らくだが通り抜けることが不可能なほどの出入り口です。聖書の時代、圧倒的に多かったのは貧しい人々でした。使徒言行禄に出てくる「パン裂き」というのは、ワインのない御ミサです。秋に収穫されたブドウで作ったワインは、春の過越の祭まで保たせるのさえ大変なことでした。そのまま放置すれば「酸いぶどう酒」になってしまうからです。ですから、過越の祭で用いられていたワインは3倍ないし5倍に薄められたワインだと言われています。
 「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。」
 聖書は私共にそう教えています。

【 祈  り 】
 全能の父なる神よ、
 主よ、あなたの御子、主イエス・キリストがお示しになった道を歩ませて下さい。
 私共の主イエス・キリストの御名によってお願いいたします。
 アーメン

 聖霊降臨後第一主日       2008年5月18日

マタイ福音書28章16節~20節
 「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

   †  †  †  †  †  †  †  †  †  †  †  †

 「聖職」という言葉が、時として聖書の意図とはまったく関係のないものとして理解され、使われてしまっていることを聞いたことがあります。「司祭」とか「長老」と訳されている「プレスブテロス」という言葉がありますが、これは教会によって按手された人々を意味しているのですが、「神に近い人だと思っている」ということを耳にして、大変に驚きました。仏教の「菩薩」は正にそうした意味で使われることがありますが、聖書にはそうした考え方はありません。「司教」とか「主教」と訳されている「アポストロス」でも同じことが言えます。聖書は、「神に近い人」ということを認めていません。今日の聖書の個所でも、「天と地の一切の権能を授かっている」のは、主イエス・キリストだけです。

 聖書はそれをはっきりと示したあとで、「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」という主イエス・キリストご自身の言葉を記しているのです。洗礼を授けるのは、ですから、「神に近い人間」がすることではありません。最近はこうしたことが行われた例が少なくなっていますが、教会には「緊急洗礼」という習慣があります。何らかの事情で死を目前にしている人が洗礼を受けたいと申し出られた時に、行われるもので、三つの条件が定められていました。一つは、「水が使われること」、第二は「父と子と聖霊の御名によって」という言葉が使われること、そして、それを行う人々の中に、それが教会の洗礼であるという共通理解(インテンション)があることです。ここでは、洗礼を受ける人の信仰告白や、それを執行する人が聖職であるかどうか、クリスチャンであるかどうかは問題になっていません。船の上で病気になり、死を迎えようとしている人が洗礼を受けることを希望した時、そのためにとっておいた水を使って船長が洗礼を授けたりしたことがあったと聞いています。あるいは、迫害期に、生まれてすぐに洗礼を授ける時に、司教も司祭もいなければ、誰が授けても洗礼として認められるということでした。

 「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
 ここまでの主イエス・キリストの言葉の中に、主の弟子たちが「神に近い人」になったというニュアンスを持った言葉はまったくありません。ローマ・カトリック教会では御ミサの時の司祭はキリストの「代理」として御ミサを捧げるというルブリックが典礼解説書に記されていますが、それでさえ「神に近い人になる」ことを意味しているとは思えません。そもそも、御ミサは、神様に十字架の出来事を想い出していただくためのものです。聖餐制定語の中に「わたしの記念として」という言葉がありますが、主イエス・キリストの時代に既に訳されていたギリシア語訳の聖書(七十人訳)でこの「記念として」(エイス・ムネーモスノン)という言葉が使われている個所のほとんどのところでは、想い出すのは神様です。つまり、「私の記念として」というのは「神様が私を想い出すために」という意味になるわけです。これは、エレミアスという学者が『イエスの聖餐の言葉』という本の中で明らかにしています。

 聖餐式を司式する司祭は、「神に近い」から聖餐式を執行しているわけではありません。そうではなく、教会の聖職は神と人に仕えるために聖餐式を執行しているのです。英語で職業のことを”calling”と言うことがあります。神様に召し出されるからです。ですから教会における聖職は、「聖なる者になった人」を意味していません。「聖なる方にお仕えする者」という意味で使われ、神の出来事に仕える者という意味で使われなければなりません。私共に必要なのは、教会になくてはならないものの一つは、「聖なる者になった」聖職ではなく、神の聖なる出来事に仕え、そこに集う人々に仕えるために召し出された聖職なのです。教会の聖職といえども、人間が聖なる者になることは出来ません。自らの想いを神の権威を借りて正当化することもできません。そうした意味で、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」とおっしゃられた主イエス・キリストのお恵みに、多くの人々が与ることが出来るために、教会が建てられ、聖職を神が召し出されています。このことを教会が見失う時、教会はあの十字架にかかり、にもかかわらず復活され、そして天に昇られた主イエス・キリストを見失ってしまいます。

【 祈  り 】
 全能の父なる神よ、
 あの主イエス・キリストの十字架による贖いを、御復活による真実の希望を、そして主イエス・キリストの昇天とペンテコステの出来事を心から感謝申し上げます。どうか、一人々々が教会を支え、聖職は、主よ、あなたと人々に仕える者となることが出来ますように。人間でしかない聖職の意味を誤解することがありませんように。
 私共の主イエス・キリストの御名によってお願いいたします。
 アーメン



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