主日説教
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 聖霊降臨後第一主日 2008年5月18日 マタイ福音書28章16節~20節 † † † † † † † † † † † † 「聖職」という言葉が、時として聖書の意図とはまったく関係のないものとして理解され、使われてしまっていることを聞いたことがあります。「司祭」とか「長老」と訳されている「プレスブテロス」という言葉がありますが、これは教会によって按手された人々を意味しているのですが、「神に近い人だと思っている」ということを耳にして、大変に驚きました。仏教の「菩薩」は正にそうした意味で使われることがありますが、聖書にはそうした考え方はありません。「司教」とか「主教」と訳されている「アポストロス」でも同じことが言えます。聖書は、「神に近い人」ということを認めていません。今日の聖書の個所でも、「天と地の一切の権能を授かっている」のは、主イエス・キリストだけです。 聖書はそれをはっきりと示したあとで、「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」という主イエス・キリストご自身の言葉を記しているのです。洗礼を授けるのは、ですから、「神に近い人間」がすることではありません。最近はこうしたことが行われた例が少なくなっていますが、教会には「緊急洗礼」という習慣があります。何らかの事情で死を目前にしている人が洗礼を受けたいと申し出られた時に、行われるもので、三つの条件が定められていました。一つは、「水が使われること」、第二は「父と子と聖霊の御名によって」という言葉が使われること、そして、それを行う人々の中に、それが教会の洗礼であるという共通理解(インテンション)があることです。ここでは、洗礼を受ける人の信仰告白や、それを執行する人が聖職であるかどうか、クリスチャンであるかどうかは問題になっていません。船の上で病気になり、死を迎えようとしている人が洗礼を受けることを希望した時、そのためにとっておいた水を使って船長が洗礼を授けたりしたことがあったと聞いています。あるいは、迫害期に、生まれてすぐに洗礼を授ける時に、司教も司祭もいなければ、誰が授けても洗礼として認められるということでした。 「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」 聖餐式を司式する司祭は、「神に近い」から聖餐式を執行しているわけではありません。そうではなく、教会の聖職は神と人に仕えるために聖餐式を執行しているのです。英語で職業のことを”calling”と言うことがあります。神様に召し出されるからです。ですから教会における聖職は、「聖なる者になった人」を意味していません。「聖なる方にお仕えする者」という意味で使われ、神の出来事に仕える者という意味で使われなければなりません。私共に必要なのは、教会になくてはならないものの一つは、「聖なる者になった」聖職ではなく、神の聖なる出来事に仕え、そこに集う人々に仕えるために召し出された聖職なのです。教会の聖職といえども、人間が聖なる者になることは出来ません。自らの想いを神の権威を借りて正当化することもできません。そうした意味で、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」とおっしゃられた主イエス・キリストのお恵みに、多くの人々が与ることが出来るために、教会が建てられ、聖職を神が召し出されています。このことを教会が見失う時、教会はあの十字架にかかり、にもかかわらず復活され、そして天に昇られた主イエス・キリストを見失ってしまいます。 【 祈 り 】 PR |
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