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主日説教
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 聖霊降臨後第四主日       2008年6月8日

マタイ福音書9章9節~13節
 イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけ「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

   †  †  †  †  †  †  †  †  †  †  †  †

ホセア書第6章1節以下
「さあ、我々は主のもとに帰ろう。
 主は我々を引き裂かれたが、いやし
 我々を打たれたが、傷を包んでくださる。
 二日の後、主は我々を生かし
 三日目に、立ち上がらせてくださる。
 我々は御前に生きる。
 我々は主を知ろう。
 主を知ることを追い求めよう。
 主は曙の光のように必ず現れ
 降り注ぐ雨のように
 大地を潤す春雨のように
 我々を訪れてくださる。」
 エフライムよ
 わたしはお前をどうしたらよいのか。
 ユダよ、お前をどうしたらよいのか。
 お前たちの愛は朝の霧
 すぐに消えうせる露のようだ。
 それゆえ、わたしは彼らを
 預言者たちによって切り倒し
 わたしの口の言葉をもって滅ぼす。
 わたしの行う裁きは光のように現れる。
 わたしが喜ぶのは
 愛であっていけにえではなく
 神を知ることであって
 焼き尽くす献げ物ではない。 

 教会はいつも、主の御前に悔い改める者の群でなければなりません。喜びに満ち、高らかに讃美するためだけの、時と場であってはなりません。
 ホセアは、バビロニアの首都バビロンに捕らえられていた人々に向かって、「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし、我々を打たれたが、傷を包んでくださる。二日の後、主は我々を生かし、三日目に、立ち上がらせてくださる。」と高らかに宣言しながらも、そのバビロン捕囚からの解放が、人々の善行によって成就したのではなく、神が一方的な恵みとして与え給うたことを知っているが故に、「主のもとに帰ろう」と語った後で、「我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう」と語るのであります。

 今日のマタイ福音書の個所は、人々がいままでに何回も聞かされてきたこの旧約聖書の個所を人々に想い起こさせようとしてます。そしてそれは、マタイという徴税人の家での食事の時でありました。徴税人は、イスラエルと占領しているローマ帝国に納める税金を集めるのが仕事でした。ですから、彼らはイスラエルの人々からかなり蔑まれ、卑しめられていました。また、彼らは、集めた税金の中から一定の割合で定められた報酬を得ていましたから、イスラエルの一般的な民衆の収入よりも多くのものを得ていました。この食事の席に並んだものは、他の人々が普段食べているものよりも豊かなものであったことは間違いありません。

 もう大分以前のことですが、『一杯のかけそば』という小説がありました。創作か実話かで議論しているうちに、この作者が寸借詐欺の罪で捕まってしまい、そのことに社会の意識が向けさせられてしまったように見えました。映画にもなったこの小説ですが、しかし、「こんなことがあり得るのか」という議論まで発展していったのを記憶しています。しかし、多くの人々はあの小説に感動したのではないでしょうか。そして、その多くの人々が感動した理由は、正に飽食の時代に入っていた時の流れの中で、大切な何かを時代が見失ってしまったことに、気が付き始めたからだったのではないでしょうか。

 「金持ちが貧乏人になっても、貧乏人が金持ちになれるわけではない」という得体の知れない論理を平然と口にした方がいらっしゃいました。しかし、聖書ははっきりと私共に道を示しています。「わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく、神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない。」という言葉を告げています。あの私共の罪を赦すために十字架に死に給うた主イエス・キリストが、徴税人と共に食事をしている主イエス・キリストの弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と問い掛ける人々に、あのホセアの言葉をもう一度学び直すことを求めていらっしゃいます。憐れみとは何か、愛とは何かということを観念的に理解することではなく、あなたはどのように生きるかということを日々自分に問い掛け続けることを求めていらっしゃいます。


【 祈  り 】
 主よ、あなたに帰らせて下さい。
 あなたの御旨を生きる者にして下さい。
 私共の主イエス・キリストの御名によって、アーメン。

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