主日説教
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 聖霊降臨後第四主日 2008年6月8日 マタイ福音書9章9節~13節 † † † † † † † † † † † † ホセア書第6章1節以下 教会はいつも、主の御前に悔い改める者の群でなければなりません。喜びに満ち、高らかに讃美するためだけの、時と場であってはなりません。 今日のマタイ福音書の個所は、人々がいままでに何回も聞かされてきたこの旧約聖書の個所を人々に想い起こさせようとしてます。そしてそれは、マタイという徴税人の家での食事の時でありました。徴税人は、イスラエルと占領しているローマ帝国に納める税金を集めるのが仕事でした。ですから、彼らはイスラエルの人々からかなり蔑まれ、卑しめられていました。また、彼らは、集めた税金の中から一定の割合で定められた報酬を得ていましたから、イスラエルの一般的な民衆の収入よりも多くのものを得ていました。この食事の席に並んだものは、他の人々が普段食べているものよりも豊かなものであったことは間違いありません。 もう大分以前のことですが、『一杯のかけそば』という小説がありました。創作か実話かで議論しているうちに、この作者が寸借詐欺の罪で捕まってしまい、そのことに社会の意識が向けさせられてしまったように見えました。映画にもなったこの小説ですが、しかし、「こんなことがあり得るのか」という議論まで発展していったのを記憶しています。しかし、多くの人々はあの小説に感動したのではないでしょうか。そして、その多くの人々が感動した理由は、正に飽食の時代に入っていた時の流れの中で、大切な何かを時代が見失ってしまったことに、気が付き始めたからだったのではないでしょうか。 「金持ちが貧乏人になっても、貧乏人が金持ちになれるわけではない」という得体の知れない論理を平然と口にした方がいらっしゃいました。しかし、聖書ははっきりと私共に道を示しています。「わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく、神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない。」という言葉を告げています。あの私共の罪を赦すために十字架に死に給うた主イエス・キリストが、徴税人と共に食事をしている主イエス・キリストの弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と問い掛ける人々に、あのホセアの言葉をもう一度学び直すことを求めていらっしゃいます。憐れみとは何か、愛とは何かということを観念的に理解することではなく、あなたはどのように生きるかということを日々自分に問い掛け続けることを求めていらっしゃいます。
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