主日説教
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† † † † † † † † † † † † 中学や高校の歴史の授業で宗教改革のところを学ぶ時に、ルッターの「信仰義認」という言葉が出てきた教科書を使っていらっしゃった方もいらっしゃるかと思います。しかし、この言葉には極めて危険なものが潜んでいます。「信仰で救われるのであって、行いで救われるのではない」という言葉が、社会の問題や日常生活の具体的な問題で語られる時に使われていたことがありましたし、日本のプロテスタント教会ではこれから将来にわたっても、これが大きな問題になることは間違いないと思います。 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」 私共は、この人生の中で、日々の暮らしの中で、様々な問題にぶつかります。混雑した町の歩道で、人波の間をすり抜けていくようにその問題から目を背けるために、「私たちは信仰によって救われるのであって、行いによって救われるのではない」と考えてしまったら、「わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」という主イエス・キリストの言葉を完璧に見失ってしまいます。いま自分は何のために生きているのか、誰のために生きているのか、どこに向かって生きているのか、そうしたことを真剣に、そして深い祈りの繰り返しの中で聖書から示された道を歩んでいくこと、それが聖書が語る信仰であります。 このマタイ福音書には「山上の垂訓」という主イエスの語録のような部分があります。あの個所を読んでも、信仰を個人の心の中の問題だということを読みとることは出来ません。「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」私共にとって、信仰の原点はここにあります。そして、教会のあらゆる権威もまた、この主の御言葉の下になければなりません。
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