忍者ブログ
主日説教
[34] [33] [32] [31] [30] [29] [28] [27] [26] [25] [24]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

 聖霊降臨後第十七主日       2008年9月7日

マタイ福音書18章15節~17節
 「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。」


   †  †  †  †  †  †  †  †  †  †  †  †


 今日の聖書の個所は、新約学的に非常に興味深いところです。福音書の中で、「教会」という言葉が出てくるのは、マタイ福音書の2ヶ所だけです。おそらくこれは、マタイ福音書がマルコ福音書などに比べると、時間が経ってから記されたものだからであろうと思われます。単純に考えても、教会が成立したのはペンテコステの時だからです。マタイ福音書は、こうした教会の現実を伝えています。そして、「教会」が、あの主イエス・キリストを神の子・救い主であると信じ、あの主の十字架は、贖いの小羊であると信じ、御復活の主に出会ったという主の御弟子たちの言葉を信じた人々の群れであることは言うまでもありません。

 「すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。」と記されています。この「二人または三人の証人」は事件の目撃者かもしれません。あるいは、同じ人が犯した、同じような事件の被害者かもしれません。そして、聖書はこう続けています。「それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。」これは、既に教会が教会として、マタイ福音書が記されたときまでに組織化されていることを示しています。言い換えれば、マタイ福音書が記されたと考えられる一世紀の終わり頃には、教会が神の新しい集団として出来ていたことを意味しています。

 そしてマタイは、「使徒たちに」と書かずに、「教会に」と記しています。ここでは、出来事がある程度の具体性をもって記されていますから、この「教会に」という言葉が、所謂キリスト教会全体を意味しているわけではなく、それぞれの人が属している具体的な教会=洗礼を受けた信仰者の群れを意味しているのであろうと思われます。ですから、「使徒」や「司祭(長老)」だけではなく、信徒も含めた教会全体をマタイは「教会」と表現しているのであろうと思われます。

 「教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。」
 マタイ独自の神学です。「異邦人」はユダヤ人以外の人々を表しています。「徴税人」は、パレスチナ周辺をも支配しているローマ帝国に対する税金を集めているユダヤ人です。ですから、この「その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」という表現は教会からの正式な追放を意味しています。それだけに、「それでも聞き入れなければ」とか、「教会の言うことも聞き入れないなら」という条件節は、極めて重大な意味を持っています。


【 祈  り 】
 主よ、あなたの御子。主イエス・キリストの十字架による罪の贖いを心から感謝いたします。
 どうか、私共があの十字架のキリストを見失うことがありませんように。自らが日々犯してしまう過ちを心から悔い改めて、主の十字架の道を自らも十字架を背負って歩み続けることが出来ますように。
 私たちの主イエス・キリストの御名によってお願いいたします。
 アーメン

PR


忍者ブログ [PR]
カレンダー
04 2024/05 06
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
カテゴリー
フリーエリア
最新コメント
最新トラックバック
プロフィール
HN:
No Name Ninja
性別:
非公開
バーコード
ブログ内検索
カウンター
アクセス解析
カウンター