主日説教
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 聖霊降臨後第十八主日 2008年9月14日 マタイ福音書18章21節~35節
「キリスト教は愛の宗教です。」とか、「ひとを裁いてはなりません。赦しなさい。」ということが教会の中で語られ続けてきました。そして、教会の中では、互いに愛し合い、互いに赦しあってきたかのように考えられてしまうことがあります。しかし、事実はどうだったでしょうか。一までに洗礼を受け、主の御もとに召されていない方々はすべて、現在受聖餐者名簿に名前が残っているでしょうか。その方々がいまどこで何をしているか、教会はそれをすべて知っているでしょうか。「多分、牧師さんは知っていらっしゃいます。」という答えが返ってきそうですが、教会員はお客様で、牧師はその接待役なのでしょうか。そして、長いこと教会に足を踏み入れることがなくなった方々の、その理由に関して、教会員は、何も知る必要がないのでしょうか。 「その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。」 「どうか待ってください。きっと全部お返しします」と言って、家臣がしきりに願ったので、この家臣はそに借金を赦されたのです。しかし、彼は、この謝罪の言葉を生きようとはしませんでした。目の前にいる人の借金返済を待たなかったのです。誰がどう考えても、身勝手な振る舞いであることに変わりはありません。神は、こうした人間の身勝手な行いを見過ごしません。主君の前に呼びつけられたこの家臣に、主君はこう宣言しました。「不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」 教会はいつも、こうしたことに気を付けていなければなりません。ひとがこの主君の座に着くことも出来ません。聖職者であっても同じことです。人間は神の座に着くことは出来ません。悔い改めることのない人を、神に代わって赦すこともできません。休会における罪の赦しは神の出来事であって、ひとがそれをすることが出来るわけではありません。教会は、常にこのことを気を付けていなければなりません。教会の権威は、人間に付与されたものではなく、教会の中で働き給う神の御業です。主君をさえ牢に入れることの出来る神ご自身の御業です。その権威は、悔い改めるひとに関しては、しかし、「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」という神の権威でもあります。 【 祈 り 】 PR |
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