忍者ブログ
主日説教
[35] [34] [33] [32] [31] [30] [29] [28] [27] [26] [25]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

 聖霊降臨後第十八主日       2008年9月14日

マタイ福音書18章21節~35節
 そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」


   †  †  †  †  †  †  †  †  †  †  †  †

 「キリスト教は愛の宗教です。」とか、「ひとを裁いてはなりません。赦しなさい。」ということが教会の中で語られ続けてきました。そして、教会の中では、互いに愛し合い、互いに赦しあってきたかのように考えられてしまうことがあります。しかし、事実はどうだったでしょうか。一までに洗礼を受け、主の御もとに召されていない方々はすべて、現在受聖餐者名簿に名前が残っているでしょうか。その方々がいまどこで何をしているか、教会はそれをすべて知っているでしょうか。「多分、牧師さんは知っていらっしゃいます。」という答えが返ってきそうですが、教会員はお客様で、牧師はその接待役なのでしょうか。そして、長いこと教会に足を踏み入れることがなくなった方々の、その理由に関して、教会員は、何も知る必要がないのでしょうか。

 「その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。」
 この家来は、「どうか待ってください。きっと全部お返しします。」と言ったに過ぎません。負債の返済計画書を出したわけでもありません。自分が人々に貸しているものをすべて帳消しにします。」と言ったわけでもありません。にもかかわらず、この家来は赦されています。確かに、聖書が語る赦しは、こうしたものです。砂漠で「価なしに」水を飲ませてくれるようなものです。あの聖金曜日に、あの丘から離れたところで息をひそめていた弟子たちさえ、主の福音の使徒になったようなものです。しかし、聖書の赦しは、決して無条件の赦しではありません。

 「どうか待ってください。きっと全部お返しします」と言って、家臣がしきりに願ったので、この家臣はそに借金を赦されたのです。しかし、彼は、この謝罪の言葉を生きようとはしませんでした。目の前にいる人の借金返済を待たなかったのです。誰がどう考えても、身勝手な振る舞いであることに変わりはありません。神は、こうした人間の身勝手な行いを見過ごしません。主君の前に呼びつけられたこの家臣に、主君はこう宣言しました。「不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」

 教会はいつも、こうしたことに気を付けていなければなりません。ひとがこの主君の座に着くことも出来ません。聖職者であっても同じことです。人間は神の座に着くことは出来ません。悔い改めることのない人を、神に代わって赦すこともできません。休会における罪の赦しは神の出来事であって、ひとがそれをすることが出来るわけではありません。教会は、常にこのことを気を付けていなければなりません。教会の権威は、人間に付与されたものではなく、教会の中で働き給う神の御業です。主君をさえ牢に入れることの出来る神ご自身の御業です。その権威は、悔い改めるひとに関しては、しかし、「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」という神の権威でもあります。

【 祈  り 】
 主よ、あなたの御子。主イエス・キリストの御言葉を感謝いたします。
 どうか、私共も、自らの罪を悔い改め、その悔い改めに相応しい道を生きることが出来ますように。知恵と力と勇気をお与え下さい。
 私たちの主イエス・キリストの御名によってお願いいたします。
 アーメン

PR


忍者ブログ [PR]
カレンダー
04 2024/05 06
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
カテゴリー
フリーエリア
最新コメント
最新トラックバック
プロフィール
HN:
No Name Ninja
性別:
非公開
バーコード
ブログ内検索
カウンター
アクセス解析
カウンター