聖霊降臨後第十六主日 2008年8月31日
マタイ福音書16章13節~20節
このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」
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朝が来て、また夕が来る。それだけが、残された確かなものではないのかと思えることがあります。そして、教会の中でさえ、主イエス・キリストの出来事が見失われてしまうことがあります。「福音」という言葉によって、他の人々を裁き、しかし人間の悲惨な現実から眼を背けてしまおうとします。目の前で、あるいは世界中で起こっている悲惨な現実を、「そんなことがあってはなりません。」という言葉で、まるでベールを被せるように見えにくくしてしまいます。いや、見たくないから、目を背けてしまうのかもしれません。「平和」という言葉が、自分の身の回りが安穏であることであるかのように誤解してしまいます。
「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」
ある神学者が、ある時に、こうお話し下さったことがありました。「食べるために働くのではなく、働くために食べる。」まず、主の御旨のために働くことがあって、そのために食べるのだということです。私共キリスト者が生きているのは、生きるために生きているのではなく、主にお仕えするために生かされているのだということでもあります。「自分の十字架を背負って」という言葉は、私共が主イエスと同じ道を歩んでくるようにという、信仰の道への招きでもあります。信仰は極めて具体的なことです。頭や心の中に主イエスを想い浮かべることではありません。遠くにいる方を想い出すように、神様のことを想い浮かべることではありません。
「あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」
主イエスが弟子たちに、ご自分は「エルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている」とお話になられた時に、ペテロは「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」と答えてしまいました。あの使徒と呼ばれるようにされたペテロがです。しかし、主は、「あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」とお語りになられました。十字架に架かり、人間の罪の赦しのための生け贄として死に、にもかかわらず三日目に甦ることになっている、あの主の重大な出来事をペテロが理解したくなかったからです。「そんなことがあってはなりません。」とペテロは、主の出来事を、神の救いのご計画を自分で判断してしまいました。
「わたしのために命を失う者は、それを得る。」
信仰は自分の身を守ることではありません。信仰は、自分の願いを神様に聞きいていただこうとすることでもありません。信仰は、あのゴルゴタの丘の上で、人々の罪の贖いとして十字架にしに給うた主イエス・キリストの御跡を歩むことです。自らのすべてを捧げて、主の道を歩んでいくことであり、あの御復活の主の御栄光に包まれていることです。ひとは神になることも、キリストになることもできません。
【 祈 り 】
主よ、あなたの御子。主イエス・キリストの十字架と御復活を感謝いたします。
どうか、私共も、あの十字架への道を、自らの十字架を背負って登って生き続けることが出来ますように。知恵と力と勇気を与え続けていて下さい。
私たちの主イエス・キリストの御名によってお願いいたします。アーメン
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