主日説教
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 聖霊降臨後第十五主日 2008年8月24日 マタイ福音書16章13節~20節
「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」 しかし、現代社会にあって、様々な教会・教派がこうした呪術的な力を聖職者に見いだし、時として実に悲惨な情況を生みだしてきました。南アメリカで集団自殺した教会がありました。教会という名前を使いながら、実は経済的営利を求めている集団もあります。こうした教会に共通した特徴的なことがあります。それは、聖書を教会の教理の中心に置いておきながら、しかし、聖書の御言葉を厳密に捕らえようとする努力に欠けていることです。あるいは、時として、「聖霊の導きによって」という言葉が呪術的なものとすり替えられてしまっています。 ローマ・カトリック教会などでは、教会法が実に厳密に整備されると同時に、過去における教理聖省や法王の判断の中で重要だと思われることを一冊の書物にまとめ上げています。そして、その結果として、教会の秩序が守られています。ところが、日本の教会の中では、「信仰」とか「愛」とか「赦し」という言葉が先行し、しかもその意味が厳密に考えられていないことによって、蔭で多くの人々が傷ついてきたことも事実です。そして、時として日本の教会は、それを「福音」とか「伝統」という言葉で正当化してきてしまいました。 教会は言葉を大切にしてきた宗教集団です。特に、聖書の御言葉に関しては極めて厳密に理解されるために、2000年近くに渡って聖書神学が営まれてきています。そこでの議論は、聖職者であるかないかということを超えて、様々な人々がそれに携わってきました。先日、ある方からお話をお伺いしました。キリスト教書店が倒産するケースが増えているそうです。理由は、神学書が売れないということにあるとおっしゃっていました。しかし、「ペトロス」「岩」が何を意味していようと、聖書の御言葉に対する厳密な探求が失われたら、ニケア・コンスタンチノポリス信条をはじめとした「信仰告白」が危機に瀕します。そして、教会の十字架が、主イエス・キリストの贖罪の意味を表すものではなくなってしまうように思えて仕方がありません。 【 祈 り 】 PR |
カレンダー
リンク
フリーエリア
最新コメント
最新トラックバック
プロフィール
HN:
No Name Ninja
性別:
非公開
ブログ内検索
カウンター
アクセス解析
カウンター
|