主日説教
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 聖霊降臨後第十一主日 2008年7月27日 マタイ福音書13章31節~33節 † † † † † † † † † † † † 福音書の中には、マタイ・マルコ・ルカの三つの福音書に共通した記事があります。しかし、教の聖書の個所に関しては、前半の31節から33節に関しては、マルコやルカに記されていますが、後半の44節から49節の冒頭までは、マルコやルカには記されていません。これは、マタイ福音書の記者は主イエスの弟子だったので、主イエスがお話しされたマルコやルカよりも多くのことを知っていた、というわけではございません。ただ、マタイ福音書を編集した人が生活している中に、他には伝わっていなかった主イエスの御言葉が伝わっていただけのことです。 しかし、この44節~49節冒頭までの天国に関する譬えは、極めて判りやすいものです。畑に隠されている宝を見つけた人は、神ご自身です。人々の目にはまったくとまらないようなひとでも、神様の目から見ると正に「宝」であることがあるのです。いえ、神様はそうした人を探していらっしゃるのかもしれません。「持ち物をすっかり売り払って、それを買う」ほどの価値を神様は見ていらっしゃいます。誰もが気が付かなかったすばらしい真珠を神様が見つけることがあるのです。ここでは「高価な」と訳されていますが、この「ポルーティモス」というギリシア語は、「貴重な」とか「すばらしい」と訳した方がいいように思えます。人間の目には普通の真珠以下に見えても、神様の価値基準からするとすばらしい真珠であることがあり得るのです。 子供の頃、田圃の間を流れている小川に大きなざるを仕掛け、離れたところからそこに向かって、泥の中を棒でつつきながら歩き、最後にそのざるを上げると中には大きなフナやドジョウや、時にはウナギが捕れました。そして、ハヤやフナの小さなのはまたその小川に逃がしてしまいました。まだ今のように農薬がたくさん使われることがない時代でしたから、そうした獲物は正に人々の栄養源でした。マタイ福音書は、民衆の中に語り伝えられていた主イエスの電気を編纂したものだと考えられます。民衆にとってはきわめて日常的な光景が譬え話の中に出てまいります。 「網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。」 【 祈 り 】
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