主日説教
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 聖霊降臨後第十主日 2008年7月20日 マタイ福音書13章24節~30節 † † † † † † † † † † † † ひとはいつも、死に向かって歩んでいます。人はいつか、必ず死に出会います。その死を打破するために、不老長寿の薬を求め続けていた時代もありました。健康のためになるものを追い求めることは、今の時代の方が進んでいるかもしれません。死を少しでも遠ざけようとする人間の努力が、そこにも表れています。そして、ある人々は、そうした人間の想いを見越して、「不老長寿の薬」擬きを売り出します。そして、時として法律に触れてしまいます。しかし、そうしたことを理解しているつもりでも、死というある意味では「終わりの時」を遠ざけようとします。 聖書は、その「終わりの時」を少しでも遅らせようとすることよりも、この世の終わりの時を問題にしています。秋の収穫の時に麦だったのか、それとも毒麦だったのかが問われると告げています。マタイ福音書は同じ章の36節以下でこの譬え話の説明をしていますが、こう説明しています。「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。」その良い種は主イエス・キリストご自身であると語ります。種が蒔かれるのは人間の世界です。。 聖書は、この世の初めと終わりを見続けています。しかし、ひとはともすると自分の終わりの時だけを見つめてしまいます。けれども、聖書が私共に求めているのは、この世の終わりを見つめていきることであり、自らの死をも超えて、この世の終わりの時を見続けることを求めています。ローマの信徒への手紙第14章6節には次のように記されています。 信仰とはいつまで生きるかということを考えることではなく、誰のために、何のために生きるかということでもあります。あの有名な「良きサマリア人」の譬えで、神殿に仕える祭司やその祭司に仕えるレビ人は、強盗に襲われた人に気が付いていながら、その場を通り過ぎてしまいました。目の前で苦しんでいる人から目を背けたのです。しかし、別の神々を信じているサマリヤ人は、その強盗に襲われた人のために、自分の緊急時のために持っていたワインとオリブ油を使ってしまったのです。聖書の時代、ワインは高価なものでした。自分のために持っていた高価なものをサマリヤ人は、目の前で苦しんでいる人に差し出したのです。 【 祈 り 】 PR |
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