主日説教
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 降誕節前主日 2008年11月23日 マタイ福音書25章31節~46節 † † † † † † † † † † † † 今日の聖書の個所では、羊か山羊かということが問題なのではありません。右側にいるか左側にいるかが問題なのでもありません。「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」人々と、「わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかった」人々とを、はっきりと区別しています。 マタイ福音書の著者は、この主イエスの言葉が過越祭の時にエルサレムで語ったと記しています。大勢の人々があのエルサレムに集まっていました。富める人々も貧しい人々も、若い人々も年老いた人々も、壮健な人々も病弱な人々も、喜んでいる人々も悲しんでいる人々もそこにいたことでありましょう。アラム語を話すユダヤ人も、ギリシア語を話すユダヤ人もいたであろうと思われます。本当に様々な人々が、エルサレムに集まっていました。過越祭の時には、エルサレムの町の領域を広げなければならないほどだったのです。それは、エルサレムの中で過越の食事をすることに意味があったからです。そして、あの出エジプトというユダヤ人にとっては忘れることの出来ない出来事を想い起こすために、過越の犠牲が捧げられ、過越の食事が守られたのです。 その祭りの前に、主は人々に語り聞かせました。それが、今日の聖書の個所でもあります。「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい」と語りかけられている人々と、「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ」と言われている人々が、現実にいるのだということを主イエスは私共に語りかけているのです。これは大変なことです。過越の祭のためにエルサレムへ上ってきた人々の中には、この時を心待ちにしていた人々もいたでしょう。ユダヤ人であることを誇りに思い、ユダヤ人に科せられた律法を守り続けてきた人々もいたでしょう。そうした人々の前で、救われる者と裁かれる者がいるとはっきりと主イエスは語り給うていらっしゃるのです。「この最も小さい者」とは誰なのかを、この主の救いと裁きの言葉は、私共が考えざるを得なくしています。 飢えている人々、渇いている人々、旅をしている人々、着るものもない人々、病に苦しんでいる人々、そして、ローマ帝国によって牢に入れられている人々。彼らに、食事を提供し、井戸を使う権利を持っていないので水さえ飲むことの出来ない人々に水を差しだし、見知らぬ旅人を暖かくもてなし、、着るものさえ借金の形に取り上げられてしまった人々に自分の衣服を与え、病に苦しんでいる人々のために病が少しでも癒される方法を探し、律法を守っていながらもローマ帝国の官憲によって捕らえられている人々が一日も早く自由になれるように、そうした生き方をする人々であれと、主イエスは語り給うているのです。教会は、この主イエスの御言葉を離れて、来る主日から始まる降誕節を迎えることは出来ません。 【 祈 り 】 PR |
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