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主日説教
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 ヨハネ福音書20章1節~10節(日本聖書協会『新共同訳聖書』)
 「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。『主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。』そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。それから、この弟子たちは家に帰って行った。

    †   †  †   †  †  †  †  †  †  †  †  † 

 主イエスが十字架で息を引き取られた時、つまりひとの罪を赦すために犠牲の小羊としてあのゴルゴタの丘の上で十字架に架けられて殺された時、そこにはあの十二弟子はいませんでした。弟子たちは逃げたのです。そして、隠れた場所で息をひそめていたのかもしれません。そしてこのことを知った時に、「何故逃げたのか」と弟子たちの行動を訝ったことのある方も多いのではないでしょうか。そうした中で、マグダラのマリアは安息日が終わった後、まだ暗いうちから墓へ行きました。
 ないのです。主イエスのご遺体がないのです。アリマタヤのヨセフとニコデモが葬ったはずの主のご遺体がないのです。
 「主のご遺体が取り去られた」
 マグダラのマリアはそう考えてしまいました。彼女はすぐさまペテロのところへ向かいました。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」彼女はペテロにそう告げています。そしてペテロも、それが何を意味しているのか気が付いていません。すぐさま家を飛び出し、墓に向かいます。「一昨日の夕方、ヨセフたちが葬ったのではないのか」そう呟いていたかもしれません。
 4節以下
 「二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。」

 二人の弟子たちは、目の前に起こっていることの意味に気が付いていません。ヨハネ福音書の記者は、遺体が盗まれたのではないことをはっきりと示そうとしています。
 「イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。」
 この情景描写が示していることからすれば、主の御復活が明らかであるにもかかわらず、ペテロともう一人の弟子はそれに気が付いていないのです。主イエスに一番近かったはずのペテロたちでさえ、主の御復活に気が付いていないのです。それを聖書はこう語っています。
 9節「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」

 この世にあって主なる神が何をなされようとされているのか、あのペテロたちでさえ気が付いていなかったのです。
 ひとはいつも、心の中で主を見失いがちでございます。知っているはずのことを、知っていなければならないはずのことを、ひとはともすると見失ってしまいます。
 マタイ福音書にはこう記されています。
 16章13節以下
 「イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、『人々は、人の子のことを何者だと言っているか』とお尋ねになった。弟子たちは言った。『「洗礼者ヨハネだ」と言う人も、「エリヤだ」と言う人もいます。ほかに、「エレミヤだ」とか、「預言者の一人だ」と言う人もいます。』イエスが言われた。『それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。』シモン・ペトロが、『あなたはメシア、生ける神の子です』と答えた。」
 あの時、こう告白しているペテロでさえ、大祭司の館で3度も主イエスを知らないと口にし、あのゴルゴタの丘へは行かずに逃げ出してしまっていたのです。そして今、墓の中に主イエスのご遺体がないことをはっきりと確認しても、主が御復活されたと思えなかったのです。

 「この弟子たちは家に帰って行った。」
 ペテロともう一人の弟子は、目の前で起こっていることを理解出来ていなかったのです。彼らは自分たちの場所へ帰ってしまいました。この間に、御復活の主イエス・キリストがマグダラのマリアたちに現れたことを知ることもなく、家の戸に鍵をかけて潜んでいたのです。
 ヨハネ福音書の記者は今日の聖書の少し後にこう記しています。
 16章19節以下
 「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』」
 家の戸に鍵をかけて潜んでいる弟子たちの中に、御復活の主が現れ給うたのです。ペテロや他の弟子たちの方から御復活の主に会いに行ったのではございません。主を知らないと3度も口にしたペテロと他の弟子たちが潜んでいるところへ、御復活の主がそのお姿を現しに来て下さったのです。
 今日はイースターです。既にイースター・キャンドルに火が点されています。御復活の主が私共の所に来て下さっているということの証でもあります。このイースターの時、私共のところに主が来て下さっていることを、信仰の目を持って再確認したいと思います。そして、聖書の御言葉を通し、また御ミサのお恵みを通して、御復活の主のお恵みに与り、主が私共を召して下さる日まで、私共もまた御復活のお恵みに与れることを信じながら、主の御跡を歩んで参りたいと思います。
 主イエスの御復活は正に、私共が主に召されるまでこの世にあって主の御跡を歩んでいく為の、大きな、そしてたった一つの、しかしそれだけで十分な希望であります。


【祈 り】
 主イエス・キリストを死の淵から甦らせ給うた全能の神よ、
 私共のたった一つの希望である御復活の主に、今日の聖書の御言葉を通し、あなたが定められた聖餐を通して出会えることを心から感謝申し上げます。どうか主よ、あなたに召される日まで、御子主イエス・キリストの御跡を歩むことの出来る信仰と知恵と勇気をお与え下さい。そして、ただひたすら、あなたの御子主イエス・キリストの御跡を歩み続けさせていて下さい。
 私共に真実の希望をお示しになられた主イエス・キリストの御名によってお願いいたします。
 アーメン。

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