復活節第3主日 2008年4月6日
ルカ福音書24章28節~35節
一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。
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かつて日本で「飽食の時代」という言葉が使われました。そして、その飽食の時代が続くと、誰も「飽食」という言葉を使わなくなりました。そして、それに替わって「メタボ」=メタボリック・シンドロームという言葉がブームになっています。確かに、現代日本ではしかし、飽食の時代が続いているように見えます。「メタボ」はその結果として起こってきたことではないでしょうか。しかし、この「メタボ」の蔭にどのようなことが起こっているかを、多くの人々は気が付いていません。
「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。」
誰しもが、食卓の上には他のものが並べられ、その中から主イエスはパンを手にお取りになり、それを裂いてクレオパともう一人の人に配られたと思われるかもしれません。しかし、今日の聖書の個所にそうした食卓が、つまり私共が普段しているような食事が並んでいたかどうか。
同じルカ福音書の中に、あの有名な「良きサマリア人の譬え」が記されていますが、あの旅人はオリーブ油とワインを持っていました。オリーブ油はパンに付けて食べる為と、怪我をした時の薬ですし、ワインは気付け薬や消毒剤として持っていました。どちらも決して廉価なものではありません。特にワインは、あの過越の祭の時でさえ、人々はごく少量しか手に入れることは出来なかったと考えられます。主イエスの時代、ワインをワインのまま保存することは極めて困難なことでした。
旅人は、宿に泊まり、そこで手に入れたパンにオリーブ油をつけたものだけが夕食であった可能性が高いと思われます。クレオパともう一人の弟子は、同じようにエマオに向かって歩いていたのかもしれませんが、しかし、60スタディオンという距離を考えると、彼らはオリーブ油も、もちろんワインも持っていなかったと思われます。1スタディオンは約180メートルですから、エルサレムから約10キロしか離れていません。彼らの目の前にはパンだけはあったように思えます。
先主日に読んだ聖書の個所は、十字架の出来事が起こったあと、主の弟子たちが集まっている時に起こった出来事でした。福音書を読む範囲では、主イエスとその弟子たちの食事は、本当に粗末なものだったと思えます。食卓に様々な料理が並んでいた食事は、もしかするとザアカイの家で食事をされた時だけかもしれません。
「すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」
この二人の弟子たちが、あの最後の晩餐の時にいたとは考えられません。過越の食事は1匹の小羊を食べ尽くし、しかも満腹になる人数でしなければなりませんでした。それを考えると、主イエスと12人の弟子たち13人という数字が適当だということを読んだことがあります。にもかかわらず、 主イエスが「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」そのお姿をみて、それが主だと気が付いたということは、少なくとも、既にこのルカ福音書が書かれた時には、主がお定めになり給うた御ミサが人々の中で守り続けられていたと考えられるのではないでしょうか。
二人はすぐに「エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言って」いました。御復活の主は様々なところに表れていたのです。そして彼らも、「道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話」したのです。教会はこの御復活の主の証人たちの群れです。そして、御復活の主が現れたのは、神殿や宮殿の中ではありませんでした。主が出会われたのは、神殿に使える祭司でもなく、宮殿に住む王や貴族でもありませんでした。マルコ福音書6章6章7節以下にはこう記されています。
「そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして『下着は二枚着てはならない』と命じられた。」
これは何も特別なことではありませんでした。多くの民衆はこうした生活をしていたのです。そして、主御自身もまたそうした人々の中で生きていらっしゃったのです。
今日もイースター・キャンドルに灯がともされています。この光がどこに向かって照らし出されようとしているのかを、御復活の記念の時に、こころに深く刻みつけたいものでございます。
【 祈 り 】
全能の主なる神よ、
主イエスの御復活を信じる幸せをお与え下さり、心から感謝申し上げます。主よ、この喜びを多くの人々に伝えることが出来ますように。御復活の主がどのようなところにそのお姿を現して下さったのかを知り、その御復活の主にお仕えする者とならせて下さい。
私共の主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。
アーメン
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