主日説教
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マタイ福音書16章26節~31節 † † † † † † † † † † † † 私共は日々、多くの人々と共に生活しています。あるいは、多くの人々の間で、それぞれの人々に目を向け、配慮しながら生きています。いえ、配慮しなければ生きていくことが難しいことがあります。そうした中で、日本には「村休み」という習慣がありました。それぞれの村毎に決められた「村休み」の日には、誰も外で仕事をしてはならないという村の掟でした。最近はこの「村休み」を決めなくなってしまった村が多い中で、最近、地方に住んでいる友人から「村休み」がまだ残っていることを教えられました。兼業農家が増え、村の外に仕事に出ていく人々が多くなっている時代に、どうしてなのかを尋ねたら、興味深いことを話してくれました。その村では、町へ仕事に出ている人々はこの「村休み」の規定に縛られません。この規定が効力を持っているのは、その村の境界線の内側だけだそうです。そして、田植えや稲刈りの後にこの「村休み」があるために、体が丈夫でない方々が、周囲の目を気にすることなくゆっくり休むことが出来るのだそうです。 「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。」 あるところで、ある教会の聖職者が、「こんなになっちゃったら困るよ」と手足が不自由な方々の真似をされたのを見たことがあります。本当に悲しく思いました。怒りよりも、悲しみの方が大きかったのを覚えています。そして、驚きました。主イエスは、どのような人々と生きていらっしゃったのかをご存じないのかとさえ思えました。教会は、ともするとこうした発言の前を素通りしてしまいます。しかし、主は私共に、どう生きたらいいかをはっきりと示して居給うのです。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」 「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。」 【 祈 り 】 PR |
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