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主日説教
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 降誕節第一主日       2008年11月30日

マルコ福音書13章33節~37節
 「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」

   †  †  †  †  †  †  †  †  †  †  †  †

 人は眠っていると時の流れを認識できません。外界とまったく遮断され、時計もなく、外の音がまったく聞こえない真っ暗な部屋で眠ると、目が覚めた時、自分が何時間眠っていたのか判らないそうです。音響工学のそうした実験室で体験した方からお伺いしました。あるいは、全身麻酔をかけられて手術を受けると、その麻酔から覚めた時、その手術にどれくらいの時間がかかったのかまったく判らないそうです。

 「目を覚ましていなさい。」それは「眠るな」という意味でもあると思います。目の前で起こっていることから目を逸らし、自分に都合のいいことだけを見ていることも、目を覚ましていることにはなりません。ひとは、しかし、ともするとこの過ちを犯してしまいがちです。しかし、主イエスは、ペトロとヤコブとヨハネとアンデレに、オリブ山の頂で「目を覚ましていなさい」と語り給うたのです。それはエルサレムの神殿が崩壊する時が来ると主イエスが語り給うた後であります。(13章1節~3節)

 「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。」とは、自分自身の内側だけを見ているなということでもあります。その時というのは、自分の中の時ではなく、目の前で起こっているその時でございます。聖書は信仰を個人の心の中の事柄として考えていません。同じマルコ13章には「荒らす憎むべきものが、立ってはならぬ所に立つのを見たならば(読者よ、悟れ)、そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。屋上にいる者は、下におりるな。また家から物を取り出そうとして内にはいるな。畑にいる者は、上着を取りにあとへもどるな。その日には、身重の女と乳飲み子をもつ女とは、不幸である。この事が冬おこらぬように祈れ。」と記されています(14節以下)

 「目を覚ましていなさい。」
 アドベントを迎えたこの日、私共はこの主の御言葉をしっかりと心に留めておきたいと思います。主イエスは何のためにこの世に来たり給うたのか、何をお話しになり、どう生きよと私共にお命じになり給うたのか。そして、主イエスご自身はどのように死なれたのかをしっかりと、心に刻みつけていたいと思います。私共が待っているのは、王冠を被ったキリストではなく、荊の冠を被せられたキリストでございます。


【 祈  り 】
 主よ、あの荊の冠を被せられたあなたを見上げ続け、あなたがどう生きよと命じ給うていらっしゃるかを、私共が見失うことがないように、いつも私共を導き、励まし、支えて下さることを感謝いたします。どうか私共に、主の道を歩み続けることの出来る信仰と知恵と勇気を与え続けていて下さい。
 私共の主イエス・キリストの御名によってお願いいたします。アーメン

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