主日説教
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 降誕節第二主日 2008年12月 7日 マルコ福音書1章1節~8節 † † † † † † † † † † † † イザヤ書40章3節 マルコ福音書は「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」というイザヤ書の言葉で、主イエス・キリストの福音をはじめています。クリスマスの夜の出来事を記していません。しかし、クリスマスの出来事を否定しているのではなく、マルコ福音書の記者は、主イエス・キリストがこの世に生まれ給うた意味をはじめに知らせたかったのであろうと思われます。そして、あのバプテスマのヨハネと主イエス・キリストの関係を、しっかりと人々に伝えたかったのであろうと思われます。そして、ヨハネが「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。」と語ったことを人々に伝えなければならないと考えたのでしょう。 最近、様々なところで「守護神」という言葉が人間に対して使われることがあります。近代自由主義国家にあっては、それも自由なのですが、聖書の世界からはそれが極めて危険なことを含んでいるように思えて仕方がありません。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。」とあのヨハネが語っているお方は、紛れもなく人となられた神です。しかし、人間が神になることは出来ないし、神に近づくこともできないというのが、聖書の一貫した主張です。アブラハム・イサク・ヤコブ、ソロモンやダビデ、みな人間でした。あの洪水の中で生き残れたノアとその家族でさえ人間でした。しかし、近代国家にあっては、この人間が神の座に着こうとしたり、人間を神の座にいるかのように誤解してしまうことが起こってきています。 そして、それが教会の中で起こると、途轍もなく悲惨な情況が起こってしまいます。そうした意味では、今日の聖書の個所は、そうした時代に生きている私共に対して、決定的に重要なことを示しています。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。」とあのバプテスマのヨハネでさえ告げている方が、あのクリスマスの夜、ベツレヘムにお生まれになったということです。しかもこの方は、王の宮殿や貴族の館でお生まれになったのではありませんでした。泊まるところさえない中で、馬小屋でお生まれになったのです。ルカ福音書はその時のことをこう記しています。「彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」 あるキリスト教の聖職者の方がいらっしゃいます。社会福祉施設の園長をされていた方でした。そして、障害を持った方々が洗礼を受けたいと意思表示をされたのを知って、彼らをある教会へ連れて行き、洗礼を授けて下さるようにお願いしました。しかしその教会は、「信仰告白を出来ない方々に洗礼を授けることは出来ません」と拒否されました。そこで、この園長はご自分が聖職になることを志願し、神学を学び、訓練を受け、数年かけて牧師になられました。私はクリスマスになると、何故かあの悲しい出来事を思い起こします。「十二年間も患って出血が続いている」婦人が主イエスに近寄って来て、「後ろからイエスの服の房に触れた」だけで、主イエスはその婦人に「あなたの信仰があなたを救った」とおっしゃられたのです。私共はいま、このクリスマスを迎える悔い改めの期間に、こうした婦人のように、こころから、死にものぐるいで救いを求めている人々から目を逸らすべきではないことを聖書から告げられています。ですから、あの馬小屋に近づくことさえ憚られる自分自身を、主の御前で悔い改め、真実の福音を生きたいものでございます。
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