主日説教
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マタイ福音書21章33節~43節 † † † † † † † † † † † † マタイ福音書は、はじめにヒブル語で書かれ、それがギリシア語に訳されたと考えられてきましたが、しかし、様々な神学的考察から、ギリシア語しか話すことが出来なくなったユダヤ人たちの間に伝わっていた主イエスに関する伝承とマルコ福音書、そして、「イエス語録」とでも言うべき、現在は現存していませんが、原始教団が持っていた文書を編集して、初めからギリシア語で書いたものであろうと考えられるようになっております。勿論、弟子のマタイが記したわけではありません。 そして、今日の聖書の個所などは、もしかするとそのマタイ集団と呼ぶことができるであろう、ギリシア語しか話せなくなってしまっているユダヤ人の間で語り伝えられていた譬え話であろうかと思われます。それも、当時の農業事情を非常によく知っていると思われる人々が語り伝えていたと考えられます。そして、現代にあっても実によく理解できる譬え話です。主人から委託された仕事を、主人の意思通りにそれを遂行するのか、それとも主人から委託されたということを利用して、私腹を肥やそうとするのか。 この「ぶどう園」は、正に広い意味での教会であろうかと思われます。そして、ある意味では、この世における神の働き全体であるようにも思えます。神はいまもなお、この世にあって力強く働き給うています。そして、ひとをその働きに招き、駆り立て給うていらっしゃいます。この日本の社会の中にも、あるいは世界にも、神の御旨にそぐわないことが数多く起こっています。それは、聖書の御言葉を通して私共に示されています。「だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。」 いまこの時に、目の前で起こっていることから目を逸らすことは、明らかに聖書のメッセージから遠く離れていると言わざるを得ません。目の前で起こっていることに対して、主の御旨は私共がどうすることなのか、それをこの聖書の個所はしっかりと見抜くことを要求しています。そして、神の国に相応しい生き方を、つまり主の御旨を生きることを要求されていらっしゃいます。。 【 祈 り 】 PR 聖霊降臨後第十九主日 2008年 9月28日 マタイ福音書21章28節~32節 † † † † † † † † † † † † マタイ福音書3章1節以下 そして、聖書が語る福音の原点に至る道はこのバプテスマのヨハネのメッセージに始まると言っても過言ではないと思います。私共の信仰も、そして、ここに始まります。 「彼を信じようとしなかった」というのは、悔い改めることが出来なかったことを意味しています。そうした意味では、「ヨハネの言葉を信じなかった」ということに近いかもしれません。ひとは時として罪を犯します。過ちを犯します。ある時には自分を正当化するために、弱い人々を陥れることさえあります。そうした過ちを認めることなく、そのままの生き方を続けるならば、そこには信仰はあり得ないというのが、今日の聖書のメッセージです。「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。」という主の御言葉は、明らかにそれを示しています。 私共クリスチャンは信徒であれ聖職であれ、神のようにされた者でも、神のようになった者でもありません。むしろ、神の御前に自らが罪を犯し、過ちを犯し続けていることを懺悔し、生き方を変える決心をし、主が聖書を通して示し給うた悔い改めの道を歩む者たちの群れであります。ひとは、洗礼を受けると、罪を犯さなくなるわけではありません。日々、その時々に、主の御旨を忘れ、主の道から離れ去ろうとしてしまいます。しかし、主イエス・キリストは私共が悔い改めて、主の道に帰ることを私共に命じていらっしゃいます。 【 祈 り 】 聖霊降臨後第十九主日 2008年9月21日 マタイ福音書20章 1節~16節 † † † † † † † † † † † † かなり以前に、ある青年からお伺いしたことがあります。彼が伝道を考える集まりに出席したときのことだったそうです。数十人の集まりだったようですが、いろいろな教会から青年達が集まっていたそうですが、その中で一人の青年が「私はボーン・クリスチャンです」と自己紹介されたそうです。先祖数代にわたってクリスチャンだったのかもしれません。しかし、私の知り合いの青年は、そうではありませんでした。小学校の時から教会に通い始めたそうですが、彼の家はクリスチャン・ホームではありませんでした。何故、「ボーン・クリスチャンです」と言わなければならなかったのでしょうか。何故、そう言いたかったのでしょうか。 「天の国は次のようにたとえられる。」 私はある関係で、ある方の息子さんのご葬儀に出席したことがあります。私とは関係のない教派の教会の方でした、御父様はその教会の役員をされていらっしゃいましたが、息子さんの葬儀には牧師さんが何人もいらっしゃっていました。それから暫くして、御父様も天に召されましたが、その時には、その教会の牧師さんだけしかいらっしゃいませんでした。他の方々はどう思われたか判りませんが、御父様と息子さんは同じ教会の信者ざんです。その教会の方々が皆さんいらっしゃっていたようですが、何故か私には淋しそうに見えました。そして、その教会が属している教区からも、責任者の方はお見えになっていらっしゃいませんでした。 「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。」主は、すべての人々を同じように見ています。主の十字架は主イエス・キリストに寄りすがろうとする人々に、同じように救いを与えて下さいます。そして、私共が宣べ伝えなければならないことは、この主イエス・キリストの十字架と御復活のお恵みなのではないでしょうか。 【 祈 り 】 聖霊降臨後第十八主日 2008年9月14日 マタイ福音書18章21節~35節
「キリスト教は愛の宗教です。」とか、「ひとを裁いてはなりません。赦しなさい。」ということが教会の中で語られ続けてきました。そして、教会の中では、互いに愛し合い、互いに赦しあってきたかのように考えられてしまうことがあります。しかし、事実はどうだったでしょうか。一までに洗礼を受け、主の御もとに召されていない方々はすべて、現在受聖餐者名簿に名前が残っているでしょうか。その方々がいまどこで何をしているか、教会はそれをすべて知っているでしょうか。「多分、牧師さんは知っていらっしゃいます。」という答えが返ってきそうですが、教会員はお客様で、牧師はその接待役なのでしょうか。そして、長いこと教会に足を踏み入れることがなくなった方々の、その理由に関して、教会員は、何も知る必要がないのでしょうか。 「その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。」 「どうか待ってください。きっと全部お返しします」と言って、家臣がしきりに願ったので、この家臣はそに借金を赦されたのです。しかし、彼は、この謝罪の言葉を生きようとはしませんでした。目の前にいる人の借金返済を待たなかったのです。誰がどう考えても、身勝手な振る舞いであることに変わりはありません。神は、こうした人間の身勝手な行いを見過ごしません。主君の前に呼びつけられたこの家臣に、主君はこう宣言しました。「不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」 教会はいつも、こうしたことに気を付けていなければなりません。ひとがこの主君の座に着くことも出来ません。聖職者であっても同じことです。人間は神の座に着くことは出来ません。悔い改めることのない人を、神に代わって赦すこともできません。休会における罪の赦しは神の出来事であって、ひとがそれをすることが出来るわけではありません。教会は、常にこのことを気を付けていなければなりません。教会の権威は、人間に付与されたものではなく、教会の中で働き給う神の御業です。主君をさえ牢に入れることの出来る神ご自身の御業です。その権威は、悔い改めるひとに関しては、しかし、「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」という神の権威でもあります。 【 祈 り 】 聖霊降臨後第十七主日 2008年9月7日 マタイ福音書18章15節~17節
「すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。」と記されています。この「二人または三人の証人」は事件の目撃者かもしれません。あるいは、同じ人が犯した、同じような事件の被害者かもしれません。そして、聖書はこう続けています。「それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。」これは、既に教会が教会として、マタイ福音書が記されたときまでに組織化されていることを示しています。言い換えれば、マタイ福音書が記されたと考えられる一世紀の終わり頃には、教会が神の新しい集団として出来ていたことを意味しています。 そしてマタイは、「使徒たちに」と書かずに、「教会に」と記しています。ここでは、出来事がある程度の具体性をもって記されていますから、この「教会に」という言葉が、所謂キリスト教会全体を意味しているわけではなく、それぞれの人が属している具体的な教会=洗礼を受けた信仰者の群れを意味しているのであろうと思われます。ですから、「使徒」や「司祭(長老)」だけではなく、信徒も含めた教会全体をマタイは「教会」と表現しているのであろうと思われます。 「教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。」
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