主日説教
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 聖霊降臨後第五主日 2008年6月15日 マタイ福音書10章5節~8節 † † † † † † † † † † † † マルコ福音書1章14節~15節にこう記されています。 先日、東京の秋葉原で途轍もなく恐ろしい事件が起きました。私は音楽を聴くことが好きなので、秋葉原のジャンクショップでスピーカーやアンプの中古を探すことがあるのですが、あの事件があった場所は私がよく知っているところでした。ただ、日曜日の歩行者天国の時間に行くことはほとんどないので、歩行者天国の雰囲気は少ししか判りません。あそこに偶然いた方々が無差別な殺戮の被害者になってしまわれました。そして、「何故」という言葉が私の頭を過ぎりました。「何故、あの方はトラックで歩行者天国を走り、あの殺傷能力の高いナイフでそこにいた人々を殺してしまったのか。」 「天の国は近づいた」 「むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。」 【 祈 り 】 PR 聖霊降臨後第四主日 2008年6月8日 マタイ福音書9章9節~13節 † † † † † † † † † † † † ホセア書第6章1節以下 教会はいつも、主の御前に悔い改める者の群でなければなりません。喜びに満ち、高らかに讃美するためだけの、時と場であってはなりません。 今日のマタイ福音書の個所は、人々がいままでに何回も聞かされてきたこの旧約聖書の個所を人々に想い起こさせようとしてます。そしてそれは、マタイという徴税人の家での食事の時でありました。徴税人は、イスラエルと占領しているローマ帝国に納める税金を集めるのが仕事でした。ですから、彼らはイスラエルの人々からかなり蔑まれ、卑しめられていました。また、彼らは、集めた税金の中から一定の割合で定められた報酬を得ていましたから、イスラエルの一般的な民衆の収入よりも多くのものを得ていました。この食事の席に並んだものは、他の人々が普段食べているものよりも豊かなものであったことは間違いありません。 もう大分以前のことですが、『一杯のかけそば』という小説がありました。創作か実話かで議論しているうちに、この作者が寸借詐欺の罪で捕まってしまい、そのことに社会の意識が向けさせられてしまったように見えました。映画にもなったこの小説ですが、しかし、「こんなことがあり得るのか」という議論まで発展していったのを記憶しています。しかし、多くの人々はあの小説に感動したのではないでしょうか。そして、その多くの人々が感動した理由は、正に飽食の時代に入っていた時の流れの中で、大切な何かを時代が見失ってしまったことに、気が付き始めたからだったのではないでしょうか。 「金持ちが貧乏人になっても、貧乏人が金持ちになれるわけではない」という得体の知れない論理を平然と口にした方がいらっしゃいました。しかし、聖書ははっきりと私共に道を示しています。「わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく、神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない。」という言葉を告げています。あの私共の罪を赦すために十字架に死に給うた主イエス・キリストが、徴税人と共に食事をしている主イエス・キリストの弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と問い掛ける人々に、あのホセアの言葉をもう一度学び直すことを求めていらっしゃいます。憐れみとは何か、愛とは何かということを観念的に理解することではなく、あなたはどのように生きるかということを日々自分に問い掛け続けることを求めていらっしゃいます。
† † † † † † † † † † † † 中学や高校の歴史の授業で宗教改革のところを学ぶ時に、ルッターの「信仰義認」という言葉が出てきた教科書を使っていらっしゃった方もいらっしゃるかと思います。しかし、この言葉には極めて危険なものが潜んでいます。「信仰で救われるのであって、行いで救われるのではない」という言葉が、社会の問題や日常生活の具体的な問題で語られる時に使われていたことがありましたし、日本のプロテスタント教会ではこれから将来にわたっても、これが大きな問題になることは間違いないと思います。 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」 私共は、この人生の中で、日々の暮らしの中で、様々な問題にぶつかります。混雑した町の歩道で、人波の間をすり抜けていくようにその問題から目を背けるために、「私たちは信仰によって救われるのであって、行いによって救われるのではない」と考えてしまったら、「わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」という主イエス・キリストの言葉を完璧に見失ってしまいます。いま自分は何のために生きているのか、誰のために生きているのか、どこに向かって生きているのか、そうしたことを真剣に、そして深い祈りの繰り返しの中で聖書から示された道を歩んでいくこと、それが聖書が語る信仰であります。 このマタイ福音書には「山上の垂訓」という主イエスの語録のような部分があります。あの個所を読んでも、信仰を個人の心の中の問題だということを読みとることは出来ません。「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」私共にとって、信仰の原点はここにあります。そして、教会のあらゆる権威もまた、この主の御言葉の下になければなりません。
† † † † † † † † † † † † 先日、ある新聞を読んでいました。 「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」 最初にお話ししたようなことを、アメリカでいくつも見たことがあります。若い頃は極めて貧しく、教会で結婚式が出来なかった資産家のご夫妻が、ご自分の教会に結婚式専用のチャペルを建て、残りの資産を運用して結婚式の費用を捻出するようにと財産をお捧げになったり、あるいは、病院付きの高齢者用施設をお建てになった資産家の方もいらっしゃいました。どちらも、その資産家のお名前が彫られた小さなプレートが入口に貼られているだけでした。別の州では、資産家の方が町の近くに持っていた土地とそこに障害を持った子供たちが学び、また遊べる施設をお建てになっていらっしゃいました。そして、驚いたことは、それらの資産家のご子孫の方々は、まったくその施設の運営に関わらないどころか、ほとんど訪ねていらっしゃらないそうです。 同じマタイ福音書19章24節にはこう記されています。 【 祈 り 】 聖霊降臨後第一主日 2008年5月18日 マタイ福音書28章16節~20節 † † † † † † † † † † † † 「聖職」という言葉が、時として聖書の意図とはまったく関係のないものとして理解され、使われてしまっていることを聞いたことがあります。「司祭」とか「長老」と訳されている「プレスブテロス」という言葉がありますが、これは教会によって按手された人々を意味しているのですが、「神に近い人だと思っている」ということを耳にして、大変に驚きました。仏教の「菩薩」は正にそうした意味で使われることがありますが、聖書にはそうした考え方はありません。「司教」とか「主教」と訳されている「アポストロス」でも同じことが言えます。聖書は、「神に近い人」ということを認めていません。今日の聖書の個所でも、「天と地の一切の権能を授かっている」のは、主イエス・キリストだけです。 聖書はそれをはっきりと示したあとで、「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」という主イエス・キリストご自身の言葉を記しているのです。洗礼を授けるのは、ですから、「神に近い人間」がすることではありません。最近はこうしたことが行われた例が少なくなっていますが、教会には「緊急洗礼」という習慣があります。何らかの事情で死を目前にしている人が洗礼を受けたいと申し出られた時に、行われるもので、三つの条件が定められていました。一つは、「水が使われること」、第二は「父と子と聖霊の御名によって」という言葉が使われること、そして、それを行う人々の中に、それが教会の洗礼であるという共通理解(インテンション)があることです。ここでは、洗礼を受ける人の信仰告白や、それを執行する人が聖職であるかどうか、クリスチャンであるかどうかは問題になっていません。船の上で病気になり、死を迎えようとしている人が洗礼を受けることを希望した時、そのためにとっておいた水を使って船長が洗礼を授けたりしたことがあったと聞いています。あるいは、迫害期に、生まれてすぐに洗礼を授ける時に、司教も司祭もいなければ、誰が授けても洗礼として認められるということでした。 「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」 聖餐式を司式する司祭は、「神に近い」から聖餐式を執行しているわけではありません。そうではなく、教会の聖職は神と人に仕えるために聖餐式を執行しているのです。英語で職業のことを”calling”と言うことがあります。神様に召し出されるからです。ですから教会における聖職は、「聖なる者になった人」を意味していません。「聖なる方にお仕えする者」という意味で使われ、神の出来事に仕える者という意味で使われなければなりません。私共に必要なのは、教会になくてはならないものの一つは、「聖なる者になった」聖職ではなく、神の聖なる出来事に仕え、そこに集う人々に仕えるために召し出された聖職なのです。教会の聖職といえども、人間が聖なる者になることは出来ません。自らの想いを神の権威を借りて正当化することもできません。そうした意味で、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」とおっしゃられた主イエス・キリストのお恵みに、多くの人々が与ることが出来るために、教会が建てられ、聖職を神が召し出されています。このことを教会が見失う時、教会はあの十字架にかかり、にもかかわらず復活され、そして天に昇られた主イエス・キリストを見失ってしまいます。 【 祈 り 】 |
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