主日説教
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ヨハネ福音書3章22節~30節 † † † † † † † † † † † † 何年か前の大晦日、東京のある公園でホームレスの方々と集会をしている牧師さんが、一緒に年越しそばを食べる会をするのをお手伝いに行ったことがありました。昔とはすっかり変わってしまったJRの駅から公園まで歩いていく途中には、巨大なビルが建ち並んでいます。そして公園も、昔と比べるとかなり整備されていましたが、昔はなかった、ホームレスの方々の小屋が並んでいました。見上げると、天を貫かんばかりに高く聳えているビルがよく見えます。 今日の聖書の個所は23節からになっていましたが、どう考えても22節からだろうと思えるので、22節から30節まで読みました。バプテスマのヨハネとあるユダヤ人との会話です。ユダヤ人は、ヨハネが授けている洗礼とイエスが授けている洗礼を比べています。そして彼はヨハネにこう言います。「みんながあの人の方へ行っています。」 教会はともすると、そこに集まる人々の人数を気にかけ、数の多い教会が素晴らしい教会だと思い込んでしまいます。しかし、あの日、公園に集まったホームレスの方々の中には、クリスチャンは一人もいらっしゃいませんでした。それでも、牧師さんや手伝いの人々と一緒に大きな声で讃美歌を歌っていらっしゃいました。年末で、きっとあの巨大なビルの中にはほとんど人はいなかっただろうと思いますが、あの公園には大きな温もりがあったように思えます。そして、皆さんとお話ししながら食べた年越しそば、何とも言えない味がしていました。 「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」こう語ったヨハネは、ヘロデ王によって殺されています。しかし、そのヨハネの証は人々をあのイエス・キリストに向かわせました。「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」とは、何を意味しているのか。今の時代に、教会は何処に目を向けるべきなのか、そしてこの降誕節の時、クリスマスの喜びを誰と迎えようとして準備しているのか。もし降誕日の祝いが、自分たちの中だけのものであれば、それはあのヨハネの生き様とはまったく異なった「クリスマス」でしかなくなってしまいます。 【 祈 り 】 PR 降誕節第二主日 2008年12月 7日 マルコ福音書1章1節~8節 † † † † † † † † † † † † イザヤ書40章3節 マルコ福音書は「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」というイザヤ書の言葉で、主イエス・キリストの福音をはじめています。クリスマスの夜の出来事を記していません。しかし、クリスマスの出来事を否定しているのではなく、マルコ福音書の記者は、主イエス・キリストがこの世に生まれ給うた意味をはじめに知らせたかったのであろうと思われます。そして、あのバプテスマのヨハネと主イエス・キリストの関係を、しっかりと人々に伝えたかったのであろうと思われます。そして、ヨハネが「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。」と語ったことを人々に伝えなければならないと考えたのでしょう。 最近、様々なところで「守護神」という言葉が人間に対して使われることがあります。近代自由主義国家にあっては、それも自由なのですが、聖書の世界からはそれが極めて危険なことを含んでいるように思えて仕方がありません。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。」とあのヨハネが語っているお方は、紛れもなく人となられた神です。しかし、人間が神になることは出来ないし、神に近づくこともできないというのが、聖書の一貫した主張です。アブラハム・イサク・ヤコブ、ソロモンやダビデ、みな人間でした。あの洪水の中で生き残れたノアとその家族でさえ人間でした。しかし、近代国家にあっては、この人間が神の座に着こうとしたり、人間を神の座にいるかのように誤解してしまうことが起こってきています。 そして、それが教会の中で起こると、途轍もなく悲惨な情況が起こってしまいます。そうした意味では、今日の聖書の個所は、そうした時代に生きている私共に対して、決定的に重要なことを示しています。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。」とあのバプテスマのヨハネでさえ告げている方が、あのクリスマスの夜、ベツレヘムにお生まれになったということです。しかもこの方は、王の宮殿や貴族の館でお生まれになったのではありませんでした。泊まるところさえない中で、馬小屋でお生まれになったのです。ルカ福音書はその時のことをこう記しています。「彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」 あるキリスト教の聖職者の方がいらっしゃいます。社会福祉施設の園長をされていた方でした。そして、障害を持った方々が洗礼を受けたいと意思表示をされたのを知って、彼らをある教会へ連れて行き、洗礼を授けて下さるようにお願いしました。しかしその教会は、「信仰告白を出来ない方々に洗礼を授けることは出来ません」と拒否されました。そこで、この園長はご自分が聖職になることを志願し、神学を学び、訓練を受け、数年かけて牧師になられました。私はクリスマスになると、何故かあの悲しい出来事を思い起こします。「十二年間も患って出血が続いている」婦人が主イエスに近寄って来て、「後ろからイエスの服の房に触れた」だけで、主イエスはその婦人に「あなたの信仰があなたを救った」とおっしゃられたのです。私共はいま、このクリスマスを迎える悔い改めの期間に、こうした婦人のように、こころから、死にものぐるいで救いを求めている人々から目を逸らすべきではないことを聖書から告げられています。ですから、あの馬小屋に近づくことさえ憚られる自分自身を、主の御前で悔い改め、真実の福音を生きたいものでございます。
マルコ福音書13章33節~37節 † † † † † † † † † † † † 人は眠っていると時の流れを認識できません。外界とまったく遮断され、時計もなく、外の音がまったく聞こえない真っ暗な部屋で眠ると、目が覚めた時、自分が何時間眠っていたのか判らないそうです。音響工学のそうした実験室で体験した方からお伺いしました。あるいは、全身麻酔をかけられて手術を受けると、その麻酔から覚めた時、その手術にどれくらいの時間がかかったのかまったく判らないそうです。 「目を覚ましていなさい。」それは「眠るな」という意味でもあると思います。目の前で起こっていることから目を逸らし、自分に都合のいいことだけを見ていることも、目を覚ましていることにはなりません。ひとは、しかし、ともするとこの過ちを犯してしまいがちです。しかし、主イエスは、ペトロとヤコブとヨハネとアンデレに、オリブ山の頂で「目を覚ましていなさい」と語り給うたのです。それはエルサレムの神殿が崩壊する時が来ると主イエスが語り給うた後であります。(13章1節~3節) 「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。」とは、自分自身の内側だけを見ているなということでもあります。その時というのは、自分の中の時ではなく、目の前で起こっているその時でございます。聖書は信仰を個人の心の中の事柄として考えていません。同じマルコ13章には「荒らす憎むべきものが、立ってはならぬ所に立つのを見たならば(読者よ、悟れ)、そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。屋上にいる者は、下におりるな。また家から物を取り出そうとして内にはいるな。畑にいる者は、上着を取りにあとへもどるな。その日には、身重の女と乳飲み子をもつ女とは、不幸である。この事が冬おこらぬように祈れ。」と記されています(14節以下) 「目を覚ましていなさい。」
降誕節前主日 2008年11月23日 マタイ福音書25章31節~46節 † † † † † † † † † † † † 今日の聖書の個所では、羊か山羊かということが問題なのではありません。右側にいるか左側にいるかが問題なのでもありません。「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」人々と、「わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかった」人々とを、はっきりと区別しています。 マタイ福音書の著者は、この主イエスの言葉が過越祭の時にエルサレムで語ったと記しています。大勢の人々があのエルサレムに集まっていました。富める人々も貧しい人々も、若い人々も年老いた人々も、壮健な人々も病弱な人々も、喜んでいる人々も悲しんでいる人々もそこにいたことでありましょう。アラム語を話すユダヤ人も、ギリシア語を話すユダヤ人もいたであろうと思われます。本当に様々な人々が、エルサレムに集まっていました。過越祭の時には、エルサレムの町の領域を広げなければならないほどだったのです。それは、エルサレムの中で過越の食事をすることに意味があったからです。そして、あの出エジプトというユダヤ人にとっては忘れることの出来ない出来事を想い起こすために、過越の犠牲が捧げられ、過越の食事が守られたのです。 その祭りの前に、主は人々に語り聞かせました。それが、今日の聖書の個所でもあります。「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい」と語りかけられている人々と、「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ」と言われている人々が、現実にいるのだということを主イエスは私共に語りかけているのです。これは大変なことです。過越の祭のためにエルサレムへ上ってきた人々の中には、この時を心待ちにしていた人々もいたでしょう。ユダヤ人であることを誇りに思い、ユダヤ人に科せられた律法を守り続けてきた人々もいたでしょう。そうした人々の前で、救われる者と裁かれる者がいるとはっきりと主イエスは語り給うていらっしゃるのです。「この最も小さい者」とは誰なのかを、この主の救いと裁きの言葉は、私共が考えざるを得なくしています。 飢えている人々、渇いている人々、旅をしている人々、着るものもない人々、病に苦しんでいる人々、そして、ローマ帝国によって牢に入れられている人々。彼らに、食事を提供し、井戸を使う権利を持っていないので水さえ飲むことの出来ない人々に水を差しだし、見知らぬ旅人を暖かくもてなし、、着るものさえ借金の形に取り上げられてしまった人々に自分の衣服を与え、病に苦しんでいる人々のために病が少しでも癒される方法を探し、律法を守っていながらもローマ帝国の官憲によって捕らえられている人々が一日も早く自由になれるように、そうした生き方をする人々であれと、主イエスは語り給うているのです。教会は、この主イエスの御言葉を離れて、来る主日から始まる降誕節を迎えることは出来ません。 【 祈 り 】
10月12日以降の説教が掲載されませんでしたが、執筆者の都合でお休みさせていただいていました。聖霊降臨後第22主日~聖霊降臨後第24主日の分はお休みになります。執筆者からの連絡では、本日、聖霊降臨後第25主日の分は11月4日以降に掲載できるとのことです。 |
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