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  <title>主日の御言葉</title>
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  <description>主日説教</description>
  <lastBuildDate>Mon, 23 Mar 2009 13:02:42 GMT</lastBuildDate>
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    <title>四旬節第四主日</title>
    <description>
    <![CDATA[<p><font size="3">　四旬節第四主日　　　　　　　２００９年　３月２２日</font></p>
<p><font size="3">ヨハネ福音書第６章４節～１５節<br />
　ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。</font></p>
<p><font size="3">　　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;</font></p>
<p><font size="3">　この聖書の個所を何とか説明が付くように、様々な解釈が為されてきました。１０節の中程に「そこには草がたくさん生えていた」と記されていることから、人々はパンだけでなく、草を食べたのだと考えた人々もいました。あるいは、持っていた五つのパンと二匹の魚を差し出した少年の心を知って、人々も自分たちが持っていたものを出し合ったのだと考えた人々もいました。しかし、聖書はそうしたことに関して、一切、沈黙しています。</font></p>
<p><font size="3">　ヨハネ福音書の記者は、ただ次のようにだけ記しているのです。<br />
　「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。」<br />
　私共にとりまして、信仰というのは、この聖書の御言葉にあることだけを見つめることではないでしょうか。今日の聖書の個所も、私共人間の目から見ると奇跡に見えます。しかし、これが神の御業であるとしたら、それは人間にとっては奇跡であっても、神にとってはそれが真実なのであります。</font></p>
<p><font size="3">　「人々が満腹したとき」と１２節の冒頭にあります。たった五つのパンと二匹の魚だけで、２００デナリオンに相当するパンがあっても足りない人数が満腹しています。１デナリオンは当時の労働者の一日分の賃金ですが、現代とは貨幣価値が異なっていますから、現代のお金の単位に換算することは不可能だと、最近の翻訳学は考えていますが、しかし、２００デナリオンのパンということを考えると、相当な量のパンであったであろうと考えられます。にもかかわらず、それだけ大勢の人々が、五つのパンと二匹の魚で満腹しています。</font></p>
<p><font size="3">　「３秒に１人、貧困で幼い命が犠牲に。」という広告があるサイトに出ています。そこをクリックすると、以下のサイトが表示されます。<br />
　</font><a href="http://www.worldvision.jp/over0702/?banner_id=adcom_0903_mc3479"><font size="3">http://www.worldvision.jp/over0702/?banner_id=adcom_0903_mc3479</font></a><font size="3"><br />
　いま満腹している皆さんは、是非ご覧下さい。そして、主イエス・キリストがどのように生きよとおっしゃっているかをお考え下さい。信仰は決して心の問題ではありません。信仰は、あの十字架にかかり給うた主イエス・キリストの御跡を生きることです。この四旬節の期間、皆様もそれぞれに節制されていることでしょう。しかし、それだけが信仰であるかどうかをお考え下さり、主イエス・キリストに、持っていた五つのパンと二匹の魚をすべて差し出した少年の生き様を、私共も共に生きたいものでございます。</font></p>
<p><font size="3">【 祈&nbsp; り 】<br />
　主よ、あなたによって生かされていることを、心から感謝いたします。<br />
　どうか主よ、私共一人々々が、あなたの御子、主イエス・キリストの御跡を生きる者とならせて下さい。そして、あなたと人々にお仕えすることが出来る者とならせて下さい。<br />
　私たちの主イエス・キリストの御名によってお願いいたします。<br />
　アーメン。<br />
</font></p>]]>
    </description>
    <category>未選択</category>
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    <pubDate>Mon, 23 Mar 2009 13:02:42 GMT</pubDate>
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  </item>
    <item>
    <title>顕現後第六主日</title>
    <description>
    <![CDATA[<p><font size="3">　顕現後第六主日　　　　　　　２００９年　２月１５日</font></p>
<p><font size="3">マルコ福音書第１章４０節～４５節<br />
　さて、ハンセン病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまちハンセン病は去り、その人は清くなった。イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。<br />
　（日本聖書協会『新共同訳聖書』の一部を改訳しています）</font></p>
<p><font size="3">　　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;</font></p>
<p><font size="3">　新聞やインターネットに「訃報」と題して、お亡くなりになられた方のことが出ておりますが、死因の多くは「肺炎」と記されています。「ガン」と書かれていることは少ないように思えます。確かに、直接の死因は肺炎であるのですが、それ以前からガンを患っていらっしゃった方でも、「肺炎」と記されていることが多いと聞きました。理由は、「ガン」と記すと、残されたご遺族に不利益になることがあるからだということも耳にしたことがあります。今でも、履歴書に両親の死因を記させるところがありますが、そこに「ガン」と書いただけで、ある種の偏見が生まれているようです。</font></p>
<p><font size="3">　今日の聖書の個所は、ハンセン病患者を主イエスが癒された時の記事です。「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」というハンセン病を患っている方の言葉に、主は深く憐れみ、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」とおっしゃいました。皆さんはこの個所をお読みになってどう思われるでしょうか。「手を差し伸べてその人に触れ」というところです。現在はハンセン病に関する見解が大きく変わって、感染症ではありながらその伝染力は極めて低いことが確認されています。しかし、そうした時代にあっても、「手を差し伸べてその人に触れ」という言葉にたじろぎを感じる方も多いのではないでしょうか。</font></p>
<p><font size="3">　「四苦八苦」という言葉があります。「四苦」とは、「生・老・病・死」の四つの苦しみです。そして「愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦」を加えると「八苦」になります。是は仏教的な理解ですが、しかし、聖書にもこうした苦しみについても書き記されています。主はそうした苦しみの中にある人々に対して、「手を差し伸べてその人に触れ」ようとされていることを、今日の聖書の個所は私共に告げ知らしめています。そして、「誰にも話さないように気をつけなさい」という主の言葉を、このハンセン病を癒された人は守れませんでした。この人は「大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた」のです。</font></p>
<p><font size="3">　ひとは、ともすると僻みや妬みを心の中に持ちます。このハンセン病だった人の証言を聞いて、羨望の眼差しをもった人々もいたかもしれません。しかし、聖書はそれを問題にしていません。聖書は「イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。」と記しています。人々は「手を差し伸べてその人に触れ」た主イエスのところに来ていることを聖書は書き記しています。聖書が告げる信仰の原点はここにあるのです。主がどこにいらっしゃるのか、主はそこで何をしていらっしゃるのか、それが私共クリスチャンの生き方の原点であり、私共はその主イエス・キリストの御業にお仕えしたいものでございます。</font></p>
<p><font size="3">【 祈&nbsp; り 】<br />
　主よ、御言葉を心から感謝申し上げます。<br />
　生きることに苦しみ、老いることを苦しみ、病に苦しみ、死の苦しみにいる方々を思い起こすときに、しかし、あなたの御子、主イエス・キリストがそうした方々に手を差し伸べ、触れていることを知り、あなたが今どこで何をされようとされているのかを知ることが出来ます。どうか主よ、私共をそうした主のお働きに仕える者とならせて下さい。そして、そこで、私共も主イエス・キリストにお会いすることが出来ますように。<br />
　私共の主イエス・キリストの御名によってお願いいたします。アーメン<br />
</font></p>]]>
    </description>
    <category>未選択</category>
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    <pubDate>Sun, 15 Feb 2009 08:37:23 GMT</pubDate>
    <guid isPermaLink="false">mehikosasaki.blog.shinobi.jp://entry/42</guid>
  </item>
    <item>
    <title>顕現後第五主日</title>
    <description>
    <![CDATA[<p><font size="3">　顕現後第五主日　　　　　　　２００９年　２月　８日</font></p>
<p><font size="3">マルコ福音書第１章２９節～３９節<br />
　すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。町中の人が、戸口に集まった。イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。<br />
　朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、「みんなが捜しています」と言った。イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。</font></p>
<p><font size="3">　　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;</font></p>
<p><font size="3">　最近の日本の情況を見ていると、ある種の倒錯が起きているように思えることがあります。今日の聖書の個所に、「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて」と記されておりますが、都会地でこうした生活をしていらっしゃる方々は、勤務開始時刻が早い方々だけではないでしょうか。しかし、農村では、戦後もこうした生活が続いていたので、今もその習慣を変えていない方々がいらっしゃいます。私の祖父は、夜８時頃になると寝ていました。そして、夏は朝４時前には起きていたようです。「蛍雪」という言葉がありますが、夜暗くなってから本を読むために、ランプを点すことが出来た人々は、都会地以外では、それ程多くはなかったのではないでしょうか。</font></p>
<p><font size="3">　「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」主イエスは、そうおっしゃいました。「町や村へ行こう。」それは、イスラエルの様々な人々に、神の御業を示すためでした。「わたしは宣教する」と訳されていますが、この「宣教する」と訳されているギリシア語、あるいは「宣教」と訳されているギリシア語が意味していることは、既にそこで働き給うている神の、その御業を明らかにすることを意味しているように私には思えます。人間の働きではご座いません。そして、主は悪霊を追い出したとありますが、「追い出す」というよりは「排除する」という強い言葉のようにも思えます。</font></p>
<p><font size="3">　このマルコ福音書は、福音書の中で最も早く記されたものであろうと考えられておりますが、その大きな特徴の一つとして、イスラエルの貧しい、農村や漁村の人々に主イエスが語りかけている部分が非常に多く見られることです。彼らにとっては、明るくなる前に起き出すことは珍しいことではなかったと思います。イスラエルの緯度は東日本とほぼ同じですから、夜明けと日暮れの時刻はそう変わりありません。ですから、「シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、『みんなが捜しています』と言った」ということになるわけです。</font></p>
<p><font size="3">　「そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」<br />
　聖霊はいま、この混乱する現代にあって、どこでどのように神の御業を顕わそうとしているのでしょうか。エルサレムの神殿でしょうか。大都市の教会の中で、あるいは地方の大きな都市にある大きな教会の中ででしょうか。確かに、そうしたところでも聖霊は今も働いて居給うのですが、しかし、私共が決して見失ってはならないのは、主イエスが宣教されて歩かれた、小さな村々でも、間違いなく、確実に、聖霊はその御業を今も、力強く為し続けて居給うということでご座います。そして、私共も、そうした聖霊のお働きに仕え続けていたいと思います。</font></p>
<p><font size="3">【 祈&nbsp; り 】<br />
　主よ、御言葉を心から感謝申し上げます。<br />
　この混乱する時代にあって、野宿している人々、食べるものを得ることが出来ない人々、あるいは幼い子供たちを主よ、あなたがお守り下さいますように。そして、あなたのその御業に、私共一人々々がお仕えすることが出来ますように。虐げられている人々、苦しんでいる人々、悲しんでいる人々が、私共のすぐ隣にいるかもしれないことを、私共一人々々が気が付き、そこであなたが何をされようとしていらっしゃるのかを知ることが出来ますように。主よ、私共をあなたの宣教に仕えるものとならせて下さい。<br />
　私共の主イエス・キリストの御名によってお願いいたします。アーメン<br />
</font></p>]]>
    </description>
    <category>未選択</category>
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    <pubDate>Sun, 08 Feb 2009 01:51:38 GMT</pubDate>
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    <item>
    <title>顕現後第二主日</title>
    <description>
    <![CDATA[<p><font size="3">　顕現後第二主日　　　　　　　２００９年　１月１８日</font></p>
<p><font size="3">ヨハネ福音書１章４３節～５１節<br />
　（その翌日、）イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」</font></p>
<p><font size="3">　　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;</font></p>
<p><font size="3">　ひとは神になることも、神のようになることもできません。あるいは、自分から神に会おうとしても、神に出会えるものでもありません。これは、あのペトロをはじめ、主イエスの御弟子でさえそうでした。彼らは皆、主イエスから近寄ってきて下さっています。フィリポの場合もそうでした。聖書には、フィリポは主イエスを探していたとは記されていません。主イエスは、ガリラヤへ行こうとされた時に出会ったとだけ記されています。この出会いが、フィリポを変えました。それも、「わたしに従いなさい」という、主イエスご自身の御言葉によってだけです。それ以上に、聖書は説明しようとしていません。</font></p>
<p><font size="3">　私にも今までに、人生を大きく変えられた出会いがあります。その方に出会ったのは、自分が計画してのことではありません。本当に偶然のことでした。もちろん、私はその方のことを存じ上げておりませんでした。あることで、すべてが行き詰まっていた時に、ふとしたことから出会うことが出来たのです。しかし、その方に出会うことによって、行き詰まっていた私の仕事が、大きく道を開かれました。主の御用のために何をどう考えたらいいのか、何をどうしたらいいのか、そして何を目指していったらいいのかをはっきりと示されはじめております。</font></p>
<p><font size="3">　フィリポがナタナエルに出会ったのも、間違いなく、神のご計画によるものでした。ひとがひとに出会うことも、そしてその方に出会うことによって大きく変えられることがあります。ナタナエルはフィリポから主イエスのことを聞いた時に、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と彼自身の知識で答えてしまいました。この言葉は、ある意味ではナザレという町を軽蔑しているように聞こえます。しかし、彼はそれまでに得た旧約聖書に記されたことを心に思い浮かべたのです。にもかかわらず、ナタナエルは変えられます。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」という主イエスの言葉に主はこう答えられたからです。「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」。</font></p>
<p><font size="3">　主はすべてをご存知でいらっしゃいます。聖書は私共に、はっきりとそれを示しています。そして、時として、思いも寄らないところで、思いも寄らない人々との出会いの中で、主は私共に道を示し、私共を導き、支え続けていて下さいます。そして、私共が歩むべき道を、聖書を通して私共に示して下さいます。ペトロ・ヤコブ・ヨハネをはじめ１２人の御弟子に出会われたのも、主が彼らのところへ来て下さり、主が彼らを招いて下さったからでありました。私共は、この混乱する時だの中にあって、多くの方々との出会いの中で、主イエスに出会いたいものです。私共は、聖書を通して、また聖霊のお導きによって主イエスに出会うことが出来ます。私共が「聖書のみ」という信仰を持っているということは、そうしたことでもあります。</font></p>
<p><font size="3">【 祈&nbsp; り 】<br />
　主よ、御言葉を心から感謝申し上げます。<br />
　日々の生活の中で、聖書を通してあの主イエス・キリストに出会わせて下さい。そして、主がどう生きよと命じられているかを知り、それを受け容れることができますように。<br />
　私共の主イエス・キリストの御名によってお願いいたします。アーメン<br />
</font></p>]]>
    </description>
    <category>未選択</category>
    <link>http://mehikosasaki.blog.shinobi.jp/%E6%9C%AA%E9%81%B8%E6%8A%9E/%E9%A1%95%E7%8F%BE%E5%BE%8C%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E4%B8%BB%E6%97%A5</link>
    <pubDate>Sat, 07 Feb 2009 23:27:36 GMT</pubDate>
    <guid isPermaLink="false">mehikosasaki.blog.shinobi.jp://entry/40</guid>
  </item>
    <item>
    <title>降誕節第四主日</title>
    <description>
    <![CDATA[<p><font size="3"><br />
　降誕節第四主日　　　　　　　２００８年１２月２１日</font></p>
<p><font size="3">ルカ福音書１章２６節～３８節<br />
　六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。</font></p>
<p><font size="3">　　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;</font></p>
<p><font size="3">　教会は、この聖書の個所を今までに何回読んで来たでしょうか。おそらく、クリスマスが来るたびにこの聖書の個所を読んできました。そして、主イエス・キリストがお生まれになった時の出来事を、信じ続けてきたはずです。ごく一部のキリスト教会では、この聖書の個所にある、「処女降誕」を科学的には考えられないという理由から否定することもありました。そして、その教会が属している教派では、かなり大きな問題になるだろうと思っておりましたら、あまり大きく取り上げられもせず、そう発言した聖職が戒規に付されるということもありませんでした。しかし、「科学的にあり得ない」ということが理由であれば、聖書の中に記されている信仰は、すべて、人生論になってしまうことは避けられませんし、聖書の時代にも「処女降誕」は起こり得ないと考えられていたことは、この聖書の個所自身が私共に教えてくれています。</font></p>
<p><font size="3">　「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」という聖母マリアの言葉が示している意味は、二千年前の人々もよく知っていたことであります。ですから、当然のこととして、このルカ福音書を記した人もそれを知っていたであろうと思われます。つまり、乙女が子を産むということはあり得ないということを、よく知っていたにもかかわらず、ルカ福音書の記者はあえてこの出来事を私共に伝えようとしているのであります。</font></p>
<p><font size="3">　私共は、日々の生活の中で、どのように神様に向かい合っているでしょうか。聖母マリアは、少なくともこの出来事に中で、人間の側から神様の出来事を見ようとしてしまっています。「どうして、そのようなことがありえましょうか。」と口にしてしまいました。そして、人はともすると、こうした発想で神様の御旨や御力を考えてしまいがちでございます。言い換えれば、主の御旨を追い求める信仰ではなく、自らの思いを、あるいは知識を神に認めさせようとしていないでしょうか。それも、自分たちにとって都合のいい知識と考え方をです。あるいは、教会という名の人間の集団や歴史を、神様に認めさせ、それを維持することが信仰だと決めつけ、「福音」という言葉が人間の想いいの中で一人歩きをしていないでしょうか。</font></p>
<p><font size="3">「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」聖母マリアは、主の戒めを心にとめ、こう告白しました。「お言葉どおり、この身に成りますように。」とは、すべてを神にお委ねする信仰の告白でございます。「この身に成りますように。」とは、そして、神が為される御業のすべてを、神の御旨として受け容れることを意味する告白でございます。１２月２１日は、降誕節第４主日ですが、正に、この主の御旨であるキリストの御降誕を迎える最後の日曜日でございます。この時に、人間的な想いのすべてを捨て去り、「お言葉どおり、この身に成りますように。」と告白した聖母マリアの信仰を、人間の知識と想いのすべてを越えて、私共もこころから告白し、主の御旨の道を歩み始めたいと思います。</font></p>
<p><font size="3">【 祈&nbsp; り 】<br />
　主よ、私共は日々、自分たちの想いによって、あるいは自分たちの知識によって、あなたの御旨から離れて生きていこうとしてしまいがちですが、しかし、主よ、降誕節第４主日にあたり、もう一度、私共が自分たちの想いを越えたところにいらっしゃるあなたの御旨を受け容れ、あなたの御旨を生きることが出来ますように。<br />
　私共の主イエス・キリストの御名によってお願いいたします。アーメン<br />
</font></p>]]>
    </description>
    <category>未選択</category>
    <link>http://mehikosasaki.blog.shinobi.jp/%E6%9C%AA%E9%81%B8%E6%8A%9E/%E9%99%8D%E8%AA%95%E7%AF%80%E7%AC%AC%E5%9B%9B%E4%B8%BB%E6%97%A5</link>
    <pubDate>Sat, 20 Dec 2008 14:01:44 GMT</pubDate>
    <guid isPermaLink="false">mehikosasaki.blog.shinobi.jp://entry/39</guid>
  </item>
    <item>
    <title>降誕節第三主日</title>
    <description>
    <![CDATA[<p><font size="3"><br />
　降誕節第三主日　　　　　　　２００８年１２月１４日</font></p>
<p><font size="3">ヨハネ福音書３章２２節～３０節<br />
　その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼を授けておられた。他方、ヨハネは、サリムの近くのアイノンで洗礼を授けていた。そこは水が豊かであったからである。人々は来て、洗礼を受けていた。ヨハネはまだ投獄されていなかったのである。ところがヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった。彼らはヨハネのもとに来て言った。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」ヨハネは答えて言った。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」</font></p>
<p><font size="3">　　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;</font></p>
<p><font size="3">　何年か前の大晦日、東京のある公園でホームレスの方々と集会をしている牧師さんが、一緒に年越しそばを食べる会をするのをお手伝いに行ったことがありました。昔とはすっかり変わってしまったＪＲの駅から公園まで歩いていく途中には、巨大なビルが建ち並んでいます。そして公園も、昔と比べるとかなり整備されていましたが、昔はなかった、ホームレスの方々の小屋が並んでいました。見上げると、天を貫かんばかりに高く聳えているビルがよく見えます。</font></p>
<p><font size="3">　今日の聖書の個所は２３節からになっていましたが、どう考えても２２節からだろうと思えるので、２２節から３０節まで読みました。バプテスマのヨハネとあるユダヤ人との会話です。ユダヤ人は、ヨハネが授けている洗礼とイエスが授けている洗礼を比べています。そして彼はヨハネにこう言います。「みんながあの人の方へ行っています。」</font></p>
<p><font size="3">　教会はともすると、そこに集まる人々の人数を気にかけ、数の多い教会が素晴らしい教会だと思い込んでしまいます。しかし、あの日、公園に集まったホームレスの方々の中には、クリスチャンは一人もいらっしゃいませんでした。それでも、牧師さんや手伝いの人々と一緒に大きな声で讃美歌を歌っていらっしゃいました。年末で、きっとあの巨大なビルの中にはほとんど人はいなかっただろうと思いますが、あの公園には大きな温もりがあったように思えます。そして、皆さんとお話ししながら食べた年越しそば、何とも言えない味がしていました。</font></p>
<p><font size="3">　「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」こう語ったヨハネは、ヘロデ王によって殺されています。しかし、そのヨハネの証は人々をあのイエス・キリストに向かわせました。「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」とは、何を意味しているのか。今の時代に、教会は何処に目を向けるべきなのか、そしてこの降誕節の時、クリスマスの喜びを誰と迎えようとして準備しているのか。もし降誕日の祝いが、自分たちの中だけのものであれば、それはあのヨハネの生き様とはまったく異なった「クリスマス」でしかなくなってしまいます。</font></p>
<p><font size="3">【 祈&nbsp; り 】<br />
　主よ、私共は日々、自分自身の中に、自分たちの中だけにあなたを見ようとしています。しかし、あなたは今、教会の外で苦しんでいる人々、悲しんでいる人々と共にいようとしていらっしゃることを知ります。主よ、そうした主イエスに仕えることの出来る信仰と勇気をお与え下さい。苦しみや悲しみの中にいる人々と共にいて下さる主を、探し続けることが出来ますように。<br />
　私たちの主イエス・キリストの御名によってお願いいたします。アーメン<br />
</font></p>]]>
    </description>
    <category>未選択</category>
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    <pubDate>Sat, 13 Dec 2008 13:12:59 GMT</pubDate>
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    <item>
    <title>降誕節第二主日</title>
    <description>
    <![CDATA[<p><font size="4">　降誕節第二主日　　　　　　　２００８年１２月　７日</font></p>
<p><font size="4">マルコ福音書１章１節～８節<br />
　神の子イエス・キリストの福音の初め。預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」</font></p>
<p><font size="4">　　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;</font></p>
<p><font size="4">イザヤ書４０章３節<br />
　呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え<br />
　わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。<br />
　谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。<br />
　険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。<br />
　主の栄光がこうして現れるのを<br />
　　　肉なる者は共に見る。<br />
　主の口がこう宣言される。」</font></p>
<p><font size="4">　マルコ福音書は「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」というイザヤ書の言葉で、主イエス・キリストの福音をはじめています。クリスマスの夜の出来事を記していません。しかし、クリスマスの出来事を否定しているのではなく、マルコ福音書の記者は、主イエス・キリストがこの世に生まれ給うた意味をはじめに知らせたかったのであろうと思われます。そして、あのバプテスマのヨハネと主イエス・キリストの関係を、しっかりと人々に伝えたかったのであろうと思われます。そして、ヨハネが「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。」と語ったことを人々に伝えなければならないと考えたのでしょう。</font></p>
<p><font size="4">　最近、様々なところで「守護神」という言葉が人間に対して使われることがあります。近代自由主義国家にあっては、それも自由なのですが、聖書の世界からはそれが極めて危険なことを含んでいるように思えて仕方がありません。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。」とあのヨハネが語っているお方は、紛れもなく人となられた神です。しかし、人間が神になることは出来ないし、神に近づくこともできないというのが、聖書の一貫した主張です。アブラハム・イサク・ヤコブ、ソロモンやダビデ、みな人間でした。あの洪水の中で生き残れたノアとその家族でさえ人間でした。しかし、近代国家にあっては、この人間が神の座に着こうとしたり、人間を神の座にいるかのように誤解してしまうことが起こってきています。</font></p>
<p><font size="4">　そして、それが教会の中で起こると、途轍もなく悲惨な情況が起こってしまいます。そうした意味では、今日の聖書の個所は、そうした時代に生きている私共に対して、決定的に重要なことを示しています。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。」とあのバプテスマのヨハネでさえ告げている方が、あのクリスマスの夜、ベツレヘムにお生まれになったということです。しかもこの方は、王の宮殿や貴族の館でお生まれになったのではありませんでした。泊まるところさえない中で、馬小屋でお生まれになったのです。ルカ福音書はその時のことをこう記しています。「彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」</font></p>
<p><font size="4">　あるキリスト教の聖職者の方がいらっしゃいます。社会福祉施設の園長をされていた方でした。そして、障害を持った方々が洗礼を受けたいと意思表示をされたのを知って、彼らをある教会へ連れて行き、洗礼を授けて下さるようにお願いしました。しかしその教会は、「信仰告白を出来ない方々に洗礼を授けることは出来ません」と拒否されました。そこで、この園長はご自分が聖職になることを志願し、神学を学び、訓練を受け、数年かけて牧師になられました。私はクリスマスになると、何故かあの悲しい出来事を思い起こします。「十二年間も患って出血が続いている」婦人が主イエスに近寄って来て、「後ろからイエスの服の房に触れた」だけで、主イエスはその婦人に「あなたの信仰があなたを救った」とおっしゃられたのです。私共はいま、このクリスマスを迎える悔い改めの期間に、こうした婦人のように、こころから、死にものぐるいで救いを求めている人々から目を逸らすべきではないことを聖書から告げられています。ですから、あの馬小屋に近づくことさえ憚られる自分自身を、主の御前で悔い改め、真実の福音を生きたいものでございます。</font></p>
<p><font size="4"><br />
【 祈&nbsp; り 】<br />
　主よ、私共は日々、罪の中に生きています。ともすれば、自分が神になろうとしたり、人間を神であるかのように見誤ってしまい、あなたがいま、どこで何を為されようとしているかを見失いがちでございます。主なる神よ、どうかこうした愚かな私共を導き、あなたの福音の道を歩ませて下さい。信仰と知恵と勇気をお与え下さい。そして今も、苦しみの中にいる方々と共にいて下さることを信じ、あなたのみ業に仕えさせて下さい。<br />
　私たちの主イエス・キリストの御名によってお願いいたします。アーメン<br />
</font></p>]]>
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    <category>未選択</category>
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    <pubDate>Mon, 08 Dec 2008 12:52:28 GMT</pubDate>
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    <item>
    <title>降誕節第一主日</title>
    <description>
    <![CDATA[<p><font size="3"><br />
　降誕節第一主日　　　　　　　２００８年１１月３０日</font></p>
<p><font size="3">マルコ福音書１３章３３節～３７節<br />
　「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」</font></p>
<p><font size="3">　　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;</font></p>
<p><font size="3">　人は眠っていると時の流れを認識できません。外界とまったく遮断され、時計もなく、外の音がまったく聞こえない真っ暗な部屋で眠ると、目が覚めた時、自分が何時間眠っていたのか判らないそうです。音響工学のそうした実験室で体験した方からお伺いしました。あるいは、全身麻酔をかけられて手術を受けると、その麻酔から覚めた時、その手術にどれくらいの時間がかかったのかまったく判らないそうです。</font></p>
<p><font size="3">　「目を覚ましていなさい。」それは「眠るな」という意味でもあると思います。目の前で起こっていることから目を逸らし、自分に都合のいいことだけを見ていることも、目を覚ましていることにはなりません。ひとは、しかし、ともするとこの過ちを犯してしまいがちです。しかし、主イエスは、ペトロとヤコブとヨハネとアンデレに、オリブ山の頂で「目を覚ましていなさい」と語り給うたのです。それはエルサレムの神殿が崩壊する時が来ると主イエスが語り給うた後であります。（１３章１節～３節）</font></p>
<p><font size="3">　「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。」とは、自分自身の内側だけを見ているなということでもあります。その時というのは、自分の中の時ではなく、目の前で起こっているその時でございます。聖書は信仰を個人の心の中の事柄として考えていません。同じマルコ１３章には「荒らす憎むべきものが、立ってはならぬ所に立つのを見たならば（読者よ、悟れ）、そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。屋上にいる者は、下におりるな。また家から物を取り出そうとして内にはいるな。畑にいる者は、上着を取りにあとへもどるな。その日には、身重の女と乳飲み子をもつ女とは、不幸である。この事が冬おこらぬように祈れ。」と記されています（１４節以下）</font></p>
<p><font size="3">　「目を覚ましていなさい。」<br />
　アドベントを迎えたこの日、私共はこの主の御言葉をしっかりと心に留めておきたいと思います。主イエスは何のためにこの世に来たり給うたのか、何をお話しになり、どう生きよと私共にお命じになり給うたのか。そして、主イエスご自身はどのように死なれたのかをしっかりと、心に刻みつけていたいと思います。私共が待っているのは、王冠を被ったキリストではなく、荊の冠を被せられたキリストでございます。</font></p>
<p><font size="3"><br />
【 祈&nbsp; り 】<br />
　主よ、あの荊の冠を被せられたあなたを見上げ続け、あなたがどう生きよと命じ給うていらっしゃるかを、私共が見失うことがないように、いつも私共を導き、励まし、支えて下さることを感謝いたします。どうか私共に、主の道を歩み続けることの出来る信仰と知恵と勇気を与え続けていて下さい。<br />
　私共の主イエス・キリストの御名によってお願いいたします。アーメン<br />
</font></p>]]>
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    <category>未選択</category>
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    <pubDate>Sat, 06 Dec 2008 13:30:52 GMT</pubDate>
    <guid isPermaLink="false">mehikosasaki.blog.shinobi.jp://entry/36</guid>
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    <item>
    <title>降誕節前主日</title>
    <description>
    <![CDATA[<p><strong><font size="3">　降誕節前主日</font></strong><font size="3">　　　　　　　２００８年１１月２３日</font></p>
<p><font size="3">マタイ福音書２５章３１節～４６節<br />
　「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』<br />
&nbsp;それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」</font></p>
<p><font size="3">　　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;　　&dagger;</font></p>
<p><font size="3">　今日の聖書の個所では、羊か山羊かということが問題なのではありません。右側にいるか左側にいるかが問題なのでもありません。「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」人々と、「わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかった」人々とを、はっきりと区別しています。</font></p>
<p><font size="3">　マタイ福音書の著者は、この主イエスの言葉が過越祭の時にエルサレムで語ったと記しています。大勢の人々があのエルサレムに集まっていました。富める人々も貧しい人々も、若い人々も年老いた人々も、壮健な人々も病弱な人々も、喜んでいる人々も悲しんでいる人々もそこにいたことでありましょう。アラム語を話すユダヤ人も、ギリシア語を話すユダヤ人もいたであろうと思われます。本当に様々な人々が、エルサレムに集まっていました。過越祭の時には、エルサレムの町の領域を広げなければならないほどだったのです。それは、エルサレムの中で過越の食事をすることに意味があったからです。そして、あの出エジプトというユダヤ人にとっては忘れることの出来ない出来事を想い起こすために、過越の犠牲が捧げられ、過越の食事が守られたのです。</font></p>
<p><font size="3">　その祭りの前に、主は人々に語り聞かせました。それが、今日の聖書の個所でもあります。「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい」と語りかけられている人々と、「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ」と言われている人々が、現実にいるのだということを主イエスは私共に語りかけているのです。これは大変なことです。過越の祭のためにエルサレムへ上ってきた人々の中には、この時を心待ちにしていた人々もいたでしょう。ユダヤ人であることを誇りに思い、ユダヤ人に科せられた律法を守り続けてきた人々もいたでしょう。そうした人々の前で、救われる者と裁かれる者がいるとはっきりと主イエスは語り給うていらっしゃるのです。「この最も小さい者」とは誰なのかを、この主の救いと裁きの言葉は、私共が考えざるを得なくしています。</font></p>
<p><font size="3">　飢えている人々、渇いている人々、旅をしている人々、着るものもない人々、病に苦しんでいる人々、そして、ローマ帝国によって牢に入れられている人々。彼らに、食事を提供し、井戸を使う権利を持っていないので水さえ飲むことの出来ない人々に水を差しだし、見知らぬ旅人を暖かくもてなし、、着るものさえ借金の形に取り上げられてしまった人々に自分の衣服を与え、病に苦しんでいる人々のために病が少しでも癒される方法を探し、律法を守っていながらもローマ帝国の官憲によって捕らえられている人々が一日も早く自由になれるように、そうした生き方をする人々であれと、主イエスは語り給うているのです。教会は、この主イエスの御言葉を離れて、来る主日から始まる降誕節を迎えることは出来ません。</font></p>
<p><font size="3">【 祈&nbsp; り 】<br />
　主よ、食事を、水を、温もりを、衣服を、病の癒しを、無実の罪を背負って苦しんでいる人に真実の解放が与えられるように、私共もまた、あなたから与えられた時と力と財力を捧げる勇気と知恵と信仰を私共にお与え下さい。そして、こころからの悔い改めをもって、主イエスの御降誕の時を迎えることが出来ますように。<br />
　私たちの主イエス・キリストの御名によってお願いいたします。<br />
　アーメン<br />
</font></p>]]>
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    <pubDate>Wed, 26 Nov 2008 11:22:16 GMT</pubDate>
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  </item>
    <item>
    <title>お　詫　び</title>
    <description>
    <![CDATA[<p><br />
　　　&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;　　　　　　<strong><font size="4">お　詫　び</font></strong></p>
<p><font size="3">　１０月１２日以降の説教が掲載されませんでしたが、執筆者の都合でお休みさせていただいていました。聖霊降臨後第２２主日～聖霊降臨後第２４主日の分はお休みになります。執筆者からの連絡では、本日、聖霊降臨後第２５主日の分は１１月４日以降に掲載できるとのことです。<br />
　ご報告が遅くなりましたこと、心からお詫び申し上げます。<br />
　　　　　　　執筆者&nbsp; 佐々木梅彦師　代理人ジョゼフ坂本龍馬<br />
</font></p>]]>
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    <category>未選択</category>
    <link>http://mehikosasaki.blog.shinobi.jp/%E6%9C%AA%E9%81%B8%E6%8A%9E/%E3%81%8A%E3%80%80%E8%A9%AB%E3%80%80%E3%81%B3</link>
    <pubDate>Sun, 02 Nov 2008 10:28:33 GMT</pubDate>
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